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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 56343 |
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副題 | 105 刑場の花嫁 105 しおきばのはなよめ |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控(十一)懐ろ鏡」 嶋中文庫、嶋中書店 2005(平成17)年5月20日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋社、1940(昭和15)年1月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2019-07-15 / 2019-11-23 |
長さの目安 | 約 31 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「八、今のはなんだい」
「へエ――」
銭形の平次は、後ろから跟いて来る、八五郎のガラッ八をふり返りました。正月六日の昼少し前、永代橋の上はひっきりなしに、遅れた礼者と、お詣りと、俗用の人が通ります。
「人様が見て笑っているぜ、でっかい溜息なんかしやがって」
「へエ――相済みません」
八五郎はヒョイと頭を下げました。
「お辞儀しなくたっていいやな、――腹が減ったら、減ったというがいい。八幡様の前でよっぽど昼飯にしようかと思ったが、朝飯が遅かったから、ツイ油断をしたんだ。家までは保ちそうもないのかえ」
「へエ――」
「へエ――じゃないよ。先刻は橋の袂で飼葉を喰っている馬を見て溜息を吐いていたろう。あれは人間の食うものじゃないよ。諦めた方がいいぜ」
「へッ」
八五郎は長い顎を襟に埋めました。まさに図星といった恰好です。
「どうにもこうにも保ちそうもなかったら、その辺で詰め込んで帰るとしようよ。魚の尻尾を齧っている犬なんか見て、浅ましい心を起しちゃならねエ」
平次はそんなことを言いながら、その辺のちょいとした家で、一杯やらかそうと考えているのでした。
「犬は大丈夫だが、橋詰の鰻屋の匂いを嗅いだら、フラフラッとなるかも知れませんよ」
「呆れた野郎だ」
二人は橋を渡って、御船手屋敷の方へ少し歩いた時。
「あッ、危ねエ、気を付けやがれ、間抜け奴ッ」
飛んで来て、ドカンと突き当りそうにして、平次にかわされて、クルリと一と廻りした男、八五郎の前に踏止まって遠慮のないのを張り上げたのです。
「何をッ、そっちから突っかかって来たじゃないか」
「八、放っておけ、空き腹に喧嘩は毒だ」
平次は二人の間に割って入りました。
「あッ、銭形の親分」
「なんだ。新堀の鳶頭じゃないか」
革袢纏を着た、中年輩の男、年始廻りにしては、少しあわてた恰好で、照れ隠しに冷汗を拭いております。
「相済みません。少しあわてたもんで、ツイ向う見ずにポンポンとやる癖が出ちゃって、へッ、へッ」
「恐ろしい勢いだったぜ。火事はどこだい。煙も見えないようだが」
「からかっちゃいけません、ね親分。ここでお目にかかったのは、ちょうどいい塩梅だ。ちょいと覗いてやって下さい。大変な騒ぎが始まったんで」
「何が始まったんだ。喧嘩じゃあるまいね。夫婦喧嘩の仲裁なんざ、御免蒙るよ」
「殺しですよ、親分」
「へエ、松の内から、気の短い奴があるじゃないか」
「殺されたのは、新堀の廻船問屋、三文字屋の大旦那久兵衛さんだ。たくらみ抜いた殺しで、恐ろしく気の長い奴の仕業ですぜ、親分」
「なるほど、そいつは鳶頭の畠じゃねえ」
「だからちょいと覗いて下さい。そう言っちゃ済まねえが、富島町の島吉親分じゃ、こね返しているばかりで、いつまで経っても埒が明かねえ。あんまり歯痒いから、あっしは深川の尾張屋の親分を呼んで来て、陽のあるう…