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勲章
くんしょう |
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作品ID | 56410 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「荷風全集 第十八巻」 岩波書店 1994(平成6)年7月27日 |
初出 | 「新生 第二巻第一号」新生社、1946(昭和21)年1月1日 |
入力者 | H.YAM |
校正者 | きりんの手紙 |
公開 / 更新 | 2020-12-24 / 2020-11-26 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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寄席、芝居。何に限らず興行物の楽屋には舞台へ出る藝人や、舞台の裏で働いてゐる人達を目あてにしてそれよりも亦更に果敢い渡世をしてゐるものが大勢出入をしてゐる。
わたくしが日頃行き馴れた浅草公園六区の曲角に立つてゐた彼のオペラ館の楽屋で、名も知らなければ、何処から来るともわからない丼飯屋の爺さんが、その達者であつた時の最後の面影を写真にうつしてやつた事があつた。
爺さんはその時、写真なんてヱものは一度もとつて見たことがねえんだヨと、大層よろこんで、日頃の無愛想には似ず、幾度となく有りがたうを繰返したのであつたが、それが其人の一生涯の恐らく最終の感激であつた。写真の焼付ができ上つた時には、爺さんは人知れず何処かで死んでゐたらしかつた。楽屋の人達はその事すら、わたくしに質問されて、初て気がついたらしく思はれたくらいであつた。
その日わたくしはどういふ訳で、わざ/\カメラを提げて公園のレヴユー小屋なんぞへ出掛けたのか。それはその頃三の輪辺の或寺に残つてゐた墓碣の中で、寺が引払ひにならない中に、是非とも撮影して置きたいと思つてゐたものがあつた為で。わたくしは其仕事をすましてからの帰途、ぶら/\公園を通過ぎて、ふと池の縁に立つてゐるオペラ館の楽屋口へ這入つて見たのだ。
楽屋口へ這入ると「今日終演後ヴァラヱテー第二景第三景練習にかゝります。」だの、何だのと、さま/″\な掲示の貼出してある板壁に沿ひ、すぐに塵芥だらけな危ツかしい階段が突立つてゐる。それを上ると、狭い短い廊下の真中に、寒中でも破れた扉の開け放しになつた踊子の大部屋。廊下の片隅にこの一座の中では一番名の高い藝人の部屋があり、他の片隅には流行唄をうたふ声楽家の部屋。また一階上へあがると、男の藝人が大勢雑居してゐる。こゝではこれを青年部と称へてゐて、絶えずどたばた撲り合の喧嘩がある。然しわたくしがこの楽屋をおとづれる時、入つて休むところは座頭の部屋でもなく、声楽家の控所でもなく、わかい踊子がごろ/\寝そべつてゐる大部屋に限られてゐる。
踊子の部屋へは警察署の訓示があつて、外部の男はいかなる用件があつても、出入はできない事になつてゐる。然るにわたくしばかりはいつでも断りなく、づか/\入り込むのであるが、楽屋中誰一人これを咎めるものも、怪しむものもない。これには何か訳がありさうな筈である。然しわたくしは茲に仔細らしく、わたくしばかりが唯一人、木戸御免の特権を得てゐる事について、この劇場とわたくしとの関係やら何やらを自慢らしく述立てる必要はないだらう。わたくしがそも/\最初にこの劇場の楽屋へ入り込んだ時、わたくしの年齢は既に耳順に達してゐた。それだから、半裸体の女が幾人となくごろ/\寐転がつてゐる部屋へ、無断で闖入しても、風紀を紊乱することの出来るやうな体力は既に持合してゐないものと、見做されてゐたと言つたなら…