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上杉謙信
うえすぎけんしん
作品ID56461
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「上杉謙信」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年10月11日
初出「週刊朝日」1942(昭和17)年1月4日号~5月24日号
入力者川山隆
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2014-04-03 / 2014-09-16
長さの目安約 265 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

生ける験あり

 この正月を迎えて、謙信は、ことし三十三とはなった。
 まだ弱冠といっていい。それなのに、服色も装身のすべても、ひどく地味好みであった。長袖の羽織も山繭織の鶯茶の無地ですましている。大口に似た袴だけが何やら特殊な織物らしい。またいつも好んで頭巾をかぶり、新春の装い綺羅やかな群臣のなかにあって、にこにこと無口に衆を見まわしている。――どう見ても臨済の若僧がひとりそこに交ざっているようであった。
「どうです、他愛ないものではありませんか。これですから、わが部下というものは、可愛くてなりません」
 座を隣りあわせている右側の人へ、謙信はこう話しかけた。
 関東管領の上杉憲政は、
「まったく」
 と、うなずいて、更にまた、その右隣にいる貴人へ向って、
「越後衆の義勇に富むことや辛抱強さは、夙に、四隣に聞えていますが、かように無邪気で、多芸の士が多いとは、いや初めて知りましたな」
 と、微笑を伝えた。
 貴人というのは、この中に、ただひとりの都の公卿だった。熊野どの、熊野どのと仮称しているが、実は関白家の嫡、近衛前嗣なのである。――ことし永禄四年という天下大乱の中を、いかに正月とはいえ、こうした荒武者ばかりの席に平然と臨んでともに酒を酌み、ともに歓を尽しているこの公卿も、いわゆる花鳥風月だけしか解さない堂上の人とはすこし類を異にしているようである。またそれには、こういう武人の一群に対して、何らか求める大志を抱いているものということもほぼ想像がつく。
 しかもここは、上州厩橋の城内である。京都からいえば、まだ多分に地方的野性のみを想像されやすい坂東平野の一角である。すくなくも当時の貴顕がこんなところまで旅するには、よほどな覚悟と目的がなければできなかった。
初春なれや 明けたり
おもしろの世や 今日なれ
生れあはせつるものかな
よくこそ今に。
国々こぞり立ち 国々たゝかふ
よべの夜雲と 消ゆあり
暁の出づ日と 燃ゆあり
神代を今と。
いまなれや ものゝふ
生きてこそ 人みな
またとはなき 生がひかな
草の根も喰め。
 正月七日は吉例の賜酒の宴だ。お国訛りを交ぜてこんな長歌を今様調で謡っていた越軍の若ざむらい達は、ついに挙って起ちあがり、手拍子あわせながらこの城楼第一の大広間も狭しとばかり、輪をなして踊りめぐり踊り流れ、きょうの生命を、心ゆくまで楽しませていた。

信玄の影

「連年、正月は征途で迎えるのが、このところ吉例となったようです。去年は越中の陣中でしたが、さて、来年はどこでするやら」
 謙信が、ふと述懐しながら、隣へ杯を乞うと、上杉憲政は、甚だしく済まないような顔して、
「関東のしめしを統べる管領たるわたくしに、その力がなく、四隣御多事のなかを、遠く御援軍を仰ぎ、恐縮にたえませぬ」
 と、いった。
 謙信は、彼の心事を察して、
「あなたからそんな…

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