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七代目坂東三津五郎
しちだいめばんどうみつごろう |
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作品ID | 56468 |
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著者 | 久保田 万太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻10 芝居」 作品社 1991(平成3)年12月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2015-04-12 / 2015-03-26 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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七代目坂東三津五郎(屋号、大和屋)。本名、守田寿作。
明治十五年九月二十一日、東京、京橋新富町に生れた。
明治二十二年十月、八歳で、坂東八十助と名のり、初舞台をした。
劇場は新富座で、役は“伽羅先代萩”の幼君鶴千代だつた。……といつてしまへば何んのこともないが、このときのこの先代萩、じつに、政岡と細川勝元とを九代目団十郎、八汐と仁木弾正とを五代目菊五郎、嘉藤太と外記とを初代左団次……といつた豪華な役割によるものだつた。
いかに祝福された初舞台だつたか。
座元、十二代目守田勘弥を父にもつたかれは、俳優として、まづかうした幸福な第一歩をふみだした……のだつたが、それにもかゝはらず、その後のかれの……とくに青少年時代のかれの、この発途にこたへるだけのかゞやかしさにめぐまれなかつたのはなぜか?……父、勘弥の晩年の失脚と、それにつゞく寂しい死……この人、明治三十年八月、五十二歳でこの世を去つた……とが、有無なく、かれに……かればかりでなく、かれのおとうとの三田八にも、あるまじく、暗い影を曳かせたのである。(かれ八十助について語るとき、われ/\は、同時に、かれと三つちがひだつたこの弟について語るのを忘れてはならぬ。)
□
室田武里こと田村成義が、雑誌“歌舞伎”に連載した“無線電話”は珍重すべき劇界秘録だが、その明治三十四年三月のくだりに、著者は、亡き勘弥との架空の対談に、かれ、及び、三田八に関し、率直に、つぎのやうにいつてゐる。
△……さうして子供達は如何致してをります。
○八十助ちやんは大分大きくなつて、今は歌舞伎座に出ておいでゞす。
△舞台はどうでせう。
○踊はよく踊られますが、形の小さいのと調子の悪いのが瑕です。それに今は間の子ですから、思ふやうな役も付きませんが行々は好くなられて、坂東三津五郎を嗣ぐやうになりませう。
△有難う、して弟の三田八はどうです。
○あの子は兄さんより舞台も器用でしつかりしてゐるやうですから、子供芝居でも評判の好い方ですが、新富座には更に出ません。
△それはどういふ訳でせう。
○貴方の御家内と猿屋とが仲が悪いからでせう。
△それはどういふ訳でせう。
○近頃大阪から中村紫琴の倅で、又五郎といふ子役が猿屋に同居してをりまして、それと三田八ちやんと、役揉めがするからでせう。
△情ないものですねえ。
明治三十年、浅草新猿屋町の浅草座に、沢村訥子の息子の小伝次、中村時蔵(後に歌六)の息子の吉右衛門、市川九蔵(後に団蔵)の息子の銀蔵らを中心とした子供芝居の一座が組織され、すくなからず人気をえたのに倣つて、その年の末、新富座に、片岡市蔵の息子の亀蔵だの、市川猿之助の息子の団子だのをあつめての、もう一つの子供芝居の一座が結成された。三田八もその座に加入したが、たちまち大阪下りの中村又五郎と対立、個人的感情のもつれから、ひ…