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正直者
しょうじきもの |
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作品ID | 56506 |
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著者 | 国木田 独歩 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本 國木田獨歩全集 第三卷」 学習研究社 1964(昭和39)年10月30日 |
初出 | 「新著文藝 第一卷第四號」弘文社、1903(明治36)年10月1日 |
入力者 | 葛西重夫 |
校正者 | Masaki |
公開 / 更新 | 2024-06-23 / 2024-06-16 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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見たところ成程私は正直な人物らしく思はれるでせう。たゞ正直なばかりでなく、人並變つた偏物らしくも見えるでせう。
けれども私は決して正直な者ではないのです。なまじ正直者と他から思はれたばかりに容易ならぬ罪を今日まで成し遂げて生涯の半を送つて來たのであります。
鏡に對へば私にも直ぐ私自身の容貌が能く解ります。私の顏には角といふものがありません。冴えた色がありません。眉毛が濃く、頬鬚が多く、鼻が丸く、唇が厚く、そして何處かに間の脱けたところがあります。笑へば眥に深い皺が寄るのです。それが――淺ましいことには――言ひ知れぬ愛嬌になつて居ます。それに私は隨分大きな方ですから、何時も着物は裄の足ないのを着て太い手が武骨に出て居るので一見素朴らしくも見られるのであります。身體の小い人はチヨコマカと才はじけて、身體に重味のないばかりか心の重味までが無いやうに他から推れるものですが、身體の太い男は、馬鹿でも惡黨でも横着者でも先づ他から重く思はれるのが普通で、私も其例には洩なかつたのであります。
口數多ければ未だしも、私は口無調法でした、けれども滔々と饒舌れないかといふに左樣でもないのです。時に由ては隨分人並の辯舌は振ふのであります。唯々、(これが天稟でせう、)大概の場合は他人の言ふことのみ聞いて、例の眥の皺を見せるばかり、それで居て他人の言ふことは何もかも能く解り、推測もする、邪推もする、裏表も知つて居るのであります。
私のやうな男は世間に隨分見受ますが、皆な其身の置かれた境遇、例へば昔でいふ士農工商の境遇に居て、それ/″\面白い芝居を打つて居ます。たゞ此種の人は、(私も其一人、)滅多に其境遇から外には飛び出し得ないものであります、其飛び出し得ないところに彼の重味も着いて、其打つ芝居が愈々巧く當るのであります。
ところで私の境遇の低いのと、それから私には或特別の天性があるのとで、私の演じて來た芝居が誠に淺間しい、醜いものとなつたのであります。或特別の天性といふのは、今こゝで言はないでも、後で段々に解つて來るでせう。
しかし誤解をふせぐ爲めに一言します、私は決して世の中のこと悉く芝居と同じだといふ説を持て居るのではありません。たゞ前に説きました如き、私共のやうな性質を持て居る連中は、何處かに冷いところがあつて、身に迫つて來た事柄をも、靜かに傍觀することが出來るのです、それですから極く眞面目な、誠實な顏をしながら、而も克く巧んで物事を處置することが出來ます。既に巧んで處置するといへば、其處に芝居らしい趣があるではありませんか。
さて、これから私の身の上噺を一ツ二ツお話いたします。
私の父は古い英學者で永年中學校の教師を務めて居ましたが、同窓の友ともいふべき人々は皆其の學び得し新智識を利用して社會樞要の地位を占ましたけれど、私の父のみは最初語學の教師となつたぎり、…