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鎌倉大仏論
かまくらだいぶつろん |
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作品ID | 56529 |
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著者 | 大町 桂月 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本随筆紀行第九巻 鎌倉 くれないの武者の祈り」 作品社 1986(昭和63)年8月10日 |
入力者 | 浦山敦子 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2022-06-10 / 2022-05-27 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は
美男におはす夏木立かな
これ、晶子女史の作也。晶子女史が、当代の歌壇、唯一の天才なることは此の一首にもあらはれたり。第二句、明星には、『金にはあれど』とあり。恋ごろもには、『御仏なれど』と改まれり。『金にはあれど』は、子供くさくして、露骨に失す。『御仏なれど』は、それよりは、よけれど、なほ野暮くさし。且つ、釈迦牟尼と、呼びすてにすることも如何にや。上の句は、なほ如何やうにも動くべし。『鎌倉や深沢の奥の御仏は』とすれば、自然にして大なる処はあり。されど、旧式也、晶子式に非ず。散文的也、下の句との釣合ひも悪し。元来、晶子の特色は、文句の末に無頓着なるに在り。本質が玉也、之を錦につゝむもよく、木綿につゝむもよけれど、余輩が望蜀の慾を言はば、成るべく、玉を錦につゝみたし。これ晶子の再考を促さむと欲する所以也。
暫らく歌をはなれて、往いて、鎌倉を訪へ。鎌倉も、明治二十年頃までは、青山蒼田の間に古寺、古祠、茅舎が点綴するのみにして、古色蒼然として、行人をして、懐古の情、一層切ならしめたりしが、汽車通じ、旅館増し、紳士往き、肺病患者移住し、絃歌の声、濤声に和するに及びて、全く俗地と成り了んぬ。八幡宮より、極楽の切通しまで家つゞきとなるに及びては、芭蕉の『夏草やつはものどもの夢の跡』の石碑も、今は、物笑ひの種となりぬ。心ある者、長谷の観音に詣でなば、必ずや、末法の世に泣くべし。一人毎に、一銭を出だせば、暗き堂内に導き、一雙の蝋燭を上下して、三丈三尺とやらの観音を見せしむ。これでは、まるで、観音様が、浅草の見世物に於ける大男、小男となり給ひたる也。かくても、なほ、長谷寺の僧が、三衣をつけ、珠数つまぐり居るかと思へば、世にも、傍らいたきことども也。
されど、長谷の観音より、数町はなれたる処に、鎌倉大仏あり。一寸家つゞきを離れて、左右と後ろとに、鬱蒼たる小山を負ひて、三丈三尺の尊像、端然として趺座し給ふ。美なる哉、偉なる哉。夏の月の夜、世人の寝沈まりたる頃、来りて、仏前二三間の処に跪きて、静かに仰ぎ見よ。必ずや、人間をはなれて、極楽にゆきて、仏様にお目にかゝる心地すべし。かねて、晶子の天才なる所以を知るべし。
事物の大小美醜は、もと比較より生ず。一喇嘛僧、日本に来りて、はじめて、到る処に、真の仏らしき仏像を見たりと云へりと聞く。蒙古地方は、その土地が、殺伐也、其の民が殺伐也、仏像を作る人も殺伐也。従つて、仏像も、殺伐ならざるを得ず。日本は、土地が優美也、民が優美也、仏像を作る人も優美也。是に於いて、はじめて、尊き仏像成る。鎌倉の大仏は、七百年前に成りたるもの也。奈良の大仏は、奈良朝に出来たるものなれども、その顔は徳川時代につくりかへたるものなれば、その美麗荘厳、遥かに鎌倉の大仏より下れり。兵庫の大仏は、明治年間に出来たるものなれば、奈良の大…