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群集の人
ぐんしゅうのひと
作品ID56535
原題THE MAN OF THE CROWD
著者ポー エドガー・アラン
翻訳者佐々木 直次郎
文字遣い新字新仮名
底本 「アッシャア家の崩壊」 角川文庫、角川書店
1951(昭和26)年10月15日初版
入力者江村秀之
校正者まつもこ
公開 / 更新2020-01-19 / 2020-01-06
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

Ce grand malheur, de ne pouvoir[#挿絵]tre seul.1
ラ・ブリュイエール2

 あるドイツの書物3について、“es l[#挿絵]sst sich nicht lesen”――それはそれ自身の読まれることを許さぬ――と言ったのは、もっともである。それ自身の語られることを許さぬ秘密というものがある。人々は夜ごとにその寝床の中で、懺悔聴聞僧の手を握りしめ、悲しげにその眼を眺めながら死ぬ、――洩らされようとはしない秘密の恐ろしさのために、心は絶望にみたされのどをひきつらせながら死ぬ。ああ、おりおり人の良心は重い恐怖の荷を負わされ、それはただ墓穴の中へ投げ下すよりほかにどうにもできないのだ。こうしてあらゆる罪悪の精髄は露われずにすむのである。
 あまり以前のことではない。ある秋の日の黄昏近くのころ、私はロンドンのD――コーヒー・ハウスの大きな弓形張出し窓のところに腰を下していた。それまで数か月の間私は健康を害していたのだが、その時はもう回復期に向っていた。そして体の力がもどってきて、倦怠とはまるで正反対のあの幸福な気分、――心の視力を蔽うていた翳――[#挿絵]χλυ[#挿絵]※[#無気記号と鋭アクセント付きη、U+1F24、198-13]πρ※[#有気記号付きι、U+1F31、198-13]ν[#挿絵]π※[#曲アクセント付きη、U+1FC6、198-13]εν4がとれ、知力は電気をかけられたように、あたかもかのライプニッツ5の率直にして明快な理論がゴージアス6の狂愚にして薄弱な修辞学を凌駕[#ルビの「りょが」はママ]するごとく、遙かにその日常の状態を凌駕する、といったような最も鋭敏な嗜欲にみちた気分、――になっているのであった。単に呼吸することだけでも享楽であった。そして私は、普通なら当然苦痛の源になりそうな多くのことからでさえ、積極的な快感を得た。あらゆるものに穏やかな、しかし好奇心にみちた興味を感じた。葉巻を口にし、新聞紙を膝にのせながら、あるいは広告を見つめたり、時には部屋の中の雑然たる人々を観察したり、あるいはまた煙で曇った窓ガラスを通して街路をうち眺めたりして、私はその午後の大部分を楽しんでいたのであった。
 この街は市の主要な大通りの一つで、一日じゅう非常に雑踏してはいた。しかし、あたりが暗くなるにつれて群集は刻一刻と増して来て、街燈がすっかり灯るころには、二つの込合った途切れることのない人間の潮流が、戸の外をしきりに流れていた。夕刻のこういう特別な時刻にこれに似たような場所にいたことがそれまでに一度もなかったので、この人間の頭の騒然たる海は、私の心を愉快な新奇な情緒でみたしたのであった。ついには、店の内のことに注意することはすっかり止めて、戸外の光景を眺めるのに夢中になってしまった。
 初めのうちは、私の観察は抽…

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