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廃める
やめる
作品ID56540
著者伊藤 左千夫
文字遣い新字新仮名
底本 「野菊の墓」 アイドル・ブックス、ポプラ社
1971(昭和46)年4月5日
初出「新小説 第十四卷第一號」1909(明治42)年1月1日
入力者高瀬竜一
校正者芝裕久
公開 / 更新2020-09-18 / 2020-08-28
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「や、矢野君だな、君、きょう来たのか、あそうか僕の手紙とどいて。」
 主人はなつかしげに無造作にこういって玄関の上がりはなに立った。近眼の、すこぶる度の強そうな眼鏡で格子の外をのぞくように、君、はいらんかという。
 矢野は細面手の色黒い顔に、こしゃこしゃした笑いようをしながら、くたびれたような安心したようなふうで、大儀そうに片手に毛布と鞄との一括を持ち、片手にはいいかげん大きいふろしき包みを二つ提げてる。ふろしき包みを持ったほうの手で格子戸を開けようとするがうまく開からない。主人はそれを見て土間に片足を落として格子戸を開けた。
「えらい風になった、君ほこりがひどかったろう。」
「えいたいへんな風でした。」
 矢野はおっくうそうに物をいいながら、はかまの腰なる手ぬぐいをぬき、足袋のほこりをはたいて上へあがった。玄関の間のすみへ荷物をかた寄せ、鹿児島高等学校の記章ある帽子を投げるようにぬぎやって、狭い額の汗をふきながら、主人のあとについて次の間へはいる。
 主人大木蓊は体格のよい四十以上の男で、年輩からいうと、矢野とは叔父甥くらいの差である。文学上の交際から、矢野は大木を先輩として尊敬するほかに、さらに親しい交わりをしている。矢野は元来才気質の男でないから、少しの事にも大木に相談せねば気が済まないというふうであった。ことに今度は東京にいるのだから、一散にやって来たのである。大木のほうでも矢野が頭脳のよいばかりでなく、性質が清くて情に富んでるのを愛している。
 大木は待ち受けた人を迎えて、座につかぬうちから立ちながら話しかける。
「よく早く来られた、僕はどうかと思ってな。」
「少し迷ったんですが、お手紙を見て急に元気づいて出てきました。」
 ふたりは賓主普通の礼儀などはそっちのけで、もうてんから打ちとけて対座した。
「君、ほこりを浴びたろう。ちょっと洗い場で汗を流しちゃどうか、ちょうど湯がわいてるよ。」
「えい風があんまり吹きますから。」
「そうか、そんな事はせんがいいかな。」
 大木は心づいて見ると、この熱いのに矢野は、単衣の下に厚木綿のシャツを着ていた。大木はこころひそかに非常な寂しみを感じて、思わず矢野のようすを注視した。しかし大木はそんなふうを色にも見せやせぬ。すぐに快活な談話に移ってしまった。
「きょうは君にごちそうがあるぞ、この間台湾の友人からザボンを送ってくれてな。」
 こういいながら大木は立って、そこの戸棚から大きなザボンを二つかかえ出した。
「どうだこんなに大きい。内紫というそうだ。昨日一つやってみたところ、なるほど皮の下は紫で美しい。味も夏蜜柑の比でないよ。」
 矢野はにやにや笑いながら、
「僕はときどき鹿児島でくったんです。」
「ハハそれじゃ遼東の豕であったか、やっぱりこんなに大きくて。」
「えいこんなにゃ大きかない、こりゃでかいもんだ…

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