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後立山は鹿島槍ヶ岳に非ざる乎
うしろたてやまはかしまやりがたけにあらざるか |
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作品ID | 56542 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「山岳」1917(大正6)年9月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2015-08-23 / 2015-05-24 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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後立山という名は、黒部川の峡谷を隔てて立山の東に連亙している信越国境山脈中の一峰として、夙くから地誌地図等に記載され、一個の山体として取り扱われていたらしいにも拘わらず、元来が越中の称呼であって、此方面からの登山は、甚しく困難でもあり且つ危険でもあるから、偶に入込む猟師などの外は登山者絶無という有様であったと想われる。その為にどの山がそれであるかを判定するに充分なる証拠となる可き資料が残っていないので、今まで深く論究されずに有耶無耶の中に放棄されてしまった観がある。日本の山岳研究の権威といわれている小島君すら、『山岳』第五年第三号に載せた「日本北アルプス風景論」に於て、後立山山脈なる新名称の条下に、
第六(後立山山脈)は黒岳山脈の最短なるに反して、北アルプス中、最も長大の脈で、私は総括して後立山山脈と呼んで置く、勿論越中方面からいふ「後」で、信州方面からは立山の前に当るのであるが、立山が最も古くから知られ且つ開かれた名山であるのと、後立山なる名が、早くより往々地理学者に呼ばれてゐるのと(その癖、後立山といふ一箇の山体の存在は、未だに何処だか、確には解らないのである)に敬意を表してさう言って置く。
と説明されているに過ぎない。尤も後立山山脈なる名称は、後立山なる一箇の山体が存在すると否とに関せず、此山脈が北アルプス北半の最高峰にして且つ古来の名山たる立山(立山の三角点の高度は二九九二米で、劒岳よりも六米低いが、最高点は慥に三千米を超えている)背後の山脈であるからという理由だけでも、私は此名称に賛成する者である。
北アルプスの地理に精通せられている榎谷君は、曾て「信越国境脊梁山脈登攀記」(『山岳』五年三号所載)中の「余瀝」と題する項に
五竜を後立とも書くさうだ。これは大黒鉱山主為田文太郎氏及び同所支配人高橋朝太氏から親しく聞いた所で、氏等が該鉱山採掘願書提出の際、鉱区地図作成の必要上、種々調査せられた結果、古くは立山背後の山といふやうな意味で、その辺一帯を後立と呼んで居たのだが、現今ではそれが一山岳のみの名称になったさうだ。それ故後立と書く方が正しく、五竜は後に誰れかが製造したんだらうとさへ言はれた。
と紹介されているが、別に意見は発表されなかった。
明治四十二年同四十三年と続けて此山脈に登られた辻本君は「祖父ヶ岳の二日」(『山岳』四年三号所載)と題する文中に於て
鹿島槍ヶ岳以南を、自分の管見から記して見ると、尾根は一旦余程低くなって、直に祖父ヶ岳に連り、夫から山脈は西南の方向に折れて赤沢の頭(一名赤沢岳、後立山と云ふものは即ち之であらう)となり南に走って針木峠の西に聳える尖峰(名称不明「附記」参照)となる。
と疑われたが、『山岳』六年一号所載の「後立山連峰縦断記」に於ては、
後立山なる名称は名詮自性、越中の用語にて、信州にては絶えて此名を聞…