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登山談義
とざんだんぎ
作品ID56551
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 下」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年7月15日初版第1刷
初出「山」1935(昭和10)年11月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2015-06-23 / 2015-05-04
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

八月二十日於霧ヶ峰「山の会」講演大意、後補筆

 昔からお談義を聞かせるのは大抵老人と極っているようで「またお談義か、うんざりするな」というようなことは、日常見聞する所であります。事実、相手の好むと好まざるとを問わず、聞かせたがるのが老人のお談義でありますから、私の話題を「登山談義」ときめた石原さんは、誠に気の利いた題を選んで呉れたものと感心したのでありますが、聞く皆さんの方では、さぞうんざりすることであろうとお気の毒に存じます。
 正直に白状すると、私は比較的多年山に登って居りますが、友人の田部君や其他の多くの人人のように、登山の意義とか、山は如何に自分を影響しつつあるか、或はあったか、というような哲学的見地とでもいいますか、そういう思想上の方面から登山を観察して見ようとしたこともなければ、況して科学的研究などは、全く自分の柄にないことで、出来ないことには一切手を出さないことにしています。こうした登山ではいくら登山しても、其内容は極めて貧弱であるに相違ありません、ですから登山界に何の貢献する所も無いのは当然で、有らゆる物に徹底しなければ満足し得ない今の世の中には、不思議にも間抜けた存在でありますが、それにも拘わらず山が好きで、山を謳歌し山を楽しんでいることは、昔も今も変りがない。広い世の中に私のような登山者が若し有りとすれば、余所ながら同病相憐んでいる次第であります。
 しかし私とても如何して山が好きになったのだろうか位のことは、考えて見たことがなくもないので、多分これは曾て日本山岳会の小集会で「誰にでも山が好きになれる素質があるものだ」と尾崎さんが言われたように、素質と環境との然らしむる所であったように思えます。私の故郷には、一里程離れた処に二、三百米の丘陵地帯があるのみで、一番近い赤城山でも六里離れていますが、村から見られる山は東京には及びませんが可なり多数で、男体、皇海、袈裟丸、武尊を始め小野子、子持、榛名、浅間、妙義、荒船、御荷鉾、秩父連山等は言うに及ばず、八ヶ岳の一部や蓼科山も望まれ、又上信上越界の草津白根、横手、岩菅、白砂等も、五月頃まで白い雪の姿を見せています。富士山は残念ながら見えませんが、一里許り東の方へ行くと、武甲山の左で三ツドッケの上の辺に頭を出します。唯東南の一角だけは山を見ない。勿論山の順礼に経験ある村の古老といわれる人でも、尽く此等の山を的確に名指し得る訳ではなかったので、後になって私が確めたものもあります。此等の山々が持つ怪奇な語り草と、様々な形態と、朝夕に変化する色彩とは、遠く離れて眺める為か一層深い秘密の権化として、私の小さい好奇心を唆るに充分でありました。
 其頃の農村は今の如く窮迫せず、至って平和で、女達までが重詰などを拵えて丘陵地――土地では山と呼んでいます、尤も平地の林をも田畑に対して山と称していますが――へ春は蕨…

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