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はし
作品ID56561
著者伊藤 左千夫
文字遣い新字新仮名
底本 「野菊の墓」 ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月
初出「ホトヽギス 第十三卷第一號」1909(明治42)年10月1日
入力者高瀬竜一
校正者岡村和彦
公開 / 更新2016-09-18 / 2016-09-02
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 朝霧がうすらいでくる。庭の槐からかすかに日光がもれる。主人は巻きたばこをくゆらしながら、障子をあけ放して庭をながめている。槐の下の大きな水鉢には、すいれんが水面にすきまもないくらい、丸い葉を浮けて花が一輪咲いてる。うす紅というよりは、そのうす紅色が、いっそう細かに溶解して、ただうすら赤いにおいといったような淡あわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。
 庭の木戸をおして細君が顔をだした。細君は年三十五、六、色の浅黒い、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。
「ねいあなた、大島の若衆が乳しぼりをつれてきてくれましたがね」
 こういって、細君は庭にはいってくる。主人はゆるやかに細君に目をくれたが、たちまちけわしい声でどなった。
「そんなひよりげたで庭へはいっちゃいかん、雨あがりの庭をふみくずしてしまうじゃないか。どうも無作法なやつじゃなあ、こら、いかんというに……」
 主人のどなりと細君の足とはほとんど並行したので、主人は舌うちして細君をながめたが、細君は、主人の小言に顔の色も動かさず、あえてまたいいわけもいわない。ただにわかに足をうかすようなあるきかたをして縁先へきてしまった。
 げたのあとは、ずいぶん目だって庭に傷つけたけれど、主人はふたたび小言はいわなかった。主人は、平生自分の神経過敏から、らちもないことに腹をたてることを、自分の損だと考えてる人である。いま細君にたいする小言のしりを結ばずにしまったことを、ふとおのれに勝ちえたように思いついて、すいれんのことも忘れ、庭を損じたことも忘れて、笑顔を細君にむけた。
 細君は下女をよんで、自分のひよりげたを駒げたにとりかえさして、縁端へ腰をかけた。そうしてげたのあとを消してくれ、と下女に命じた。
 細君は、主人からある場合になにほどどなられても、たいていのことでは腹をたてたり、反抗したりせぬ。それはあながち主人の小言になれたからというのでもなく、主人を恐れないからというのでもない。細君は主人の小言を根のある小言か根のない小言かを、よく直覚的に判断して、根のない小言と思ったときは、なんといわれたってけっして主人にさからうようなことはせぬ。
 主人は細君をそれほど重んじてはいないが、ただ以上の点をおおいに敬している。
「おまえは、とくな性だ」
とほめてる。細君も笑って、
「とくな性ではありませんよ、はじめから損をあきらめてるから、とくのように見えるのでしょう」という。
 世間には、ちょっとしたはずみで夫から打たれても、それをいっこう心にもとめず、打たれたあとからすぐ夫と仲よく話をする女がいくらもあるから、これは女性の特有性かもしれぬ。妻などはそれをすこしうまく発達したものであろうと、主人は考えている。
 そう考えてみると、自分が妻にたいしてわずかのことに大声たててどなるの…

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