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木曾川
きそがわ
作品ID56563
著者北原 白秋
文字遣い新字新仮名
底本 「日本八景 八大家執筆」 平凡社ライブラリー、平凡社
2005(平成17)年3月10日
入力者sogo
校正者岡村和彦
公開 / 更新2015-08-15 / 2015-08-01
長さの目安約 53 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「ほら、あれがお城だよ」
 私は振り返った。私の背後からは円い麦稈帽に金と黒とのリボンをひらひらさして、白茶の背広に濃い花色のネクタイを結んだ、やっと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとても潔よく口をへの字に引き緊めて、しかもゆたりゆたりと歩いていた。地蔵眉の、眼が大きく、汗がじりじりとその両の頬に輝いている。
 名鉄の電車を乗り捨てて、差しかかった白い白い大鉄橋――犬山橋――の鮮かな近代風景の裏のことである。
 暑い、暑い。パナマ帽に黒の上衣は脱いで、抱えて、ワイシャツの片手には鶏の首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であった。
「うん、そうか」
 父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、下手向きの白い欄干に寄り添って行った。隆太郎は一所懸命に爪立ち爪立ちした。頤が欄干の上に届かないのだ。
 ちょうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の蝉時雨であった。
 汪洋たる木曾川の水、雨後の、濁って凄まじく増水した日本ライン、噴き騰る乱雲の層は南から西へ、重畳して、何か底光のする、むしむしと紫に曇った奇怪な一脈の連峰をさえ現出している、その白金の覆輪がまた何よりも強く眼を射ったのである。その下流の右岸には秀麗な角錘形の山(それは夕暮富士だと後で聞いたが)山の頂辺に細い縦の裂目のある小松色の山が、白い河洲の緩い彎曲線と程よい近景を成して、遥には暗雲の低迷したそれは恐らく驟雨の最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろと霞んだうち展けた平野の青田も眺められた。
 その左岸の犬山の城である。
 まことに白帝城は老樹蓊鬱たる丘陵の上に現れて粉壁鮮明である。
 小さな白い三層楼、何と典麗なしかもまた均斉した、美しい天守閣であろう。この城あって初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まったくかの城こそは日本ラインの白い兜である。
「お城には誰がいるの」
「今は誰もいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ」
 私はその子の麦稈帽を軽くたたいた。かの小さな美しい城の白光が果していつまでこのおさない童子の記憶に明り得るであろうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。
 父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私は心ひそかに微笑した。「すこし強くたたいて置け」。
 私の長男である彼隆太郎は、神経質だが、意思は強そうである。一緒に行く、機関車に取りついてでもついて行くといってきかないので、やむなく小さなリュックサックを背負わして連れて出たものだが、下りの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげていた時にもこの子は一個の独自の存在であった。食堂のテーブルに向い合った僅な時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクとは確に自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩っぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分…

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