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流儀の定め
りゅうぎのさだめ
著者観世 左近 二十四世
文字遣い旧字旧仮名
底本 「文藝春秋 第十三年第一號(新年特別號)」 文藝春秋社
1935(昭和10)年1月1日
初出「文藝春秋 第十三年第一號(新年特別號)」文藝春秋社、1935(昭和10)年1月1日
入力者sogo
校正者植松健伍
公開 / 更新2020-03-21 / 2020-02-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 御承知のやうに能樂には觀世、寶生、金春、金剛、喜多の五流があつて、それ/″\獨特の流風を具へて、互に其の妍を競うて居る。そして謠の曲節も舞の型も流儀に依つて、各々ことなつて居る。よく謠は何流が一番よいとか、型は何流に限るとかいふやうなことを口にする人があるが、それは本當に能の判らない人の言である。各流とも皆獨自な長所を具へて居るので、どの流儀が一番よいなどと輕々しく論斷できるものではない。
 それもその筈であらう。各流とも長きは五百年、短くても三百年以上の長い年月の間、研鑽に研鑽を重ね鍛錬に鍛錬を重ねて現在に及んで居るのである。いま我々が演ずる所の能の形式は全く幾多の先人の努力の結晶なのである。
 であるから我々は先づ自流の精神の底に徹し、自流の定むる所に從つて精進を續けて行くべきで、かりそめにも自分の工夫を混へたり、または他流の流風に化せられたりする事は許さるべきことではない。
 この點は同じ古典藝術でも歌舞伎劇などとは著しく趣きを異にして居るのである。例へば或る青年俳優が「本朝二十四孝」の八重垣姫を演るのに、ある部分は成駒屋の型で演じ、また他の部分は、故人梅幸の型で演じたとしても、誰も怪しみもしないし、非難もしはしない。然し、我々能樂師にはそういふ勝手な眞似は、流風を紊すものとして、固く禁ぜられて居るのである。
 かういふと今の若い諸君は「何だ。能樂といふものはそんな固苦しい藝術なのか。それではまるで藝術家の個性といふものを沒却して居るではないか。藝術家の個性を沒却するやうな藝術が果して眞の意味での藝術であらうか」と疑はれるであらうと思ふ。然しそれは餘りに人間の個性といふものに對して認識の淺い議論だと思ふ。
 人間の個性といふものは如何なる場合にも、如何なる條件のもとにも燦然として其の光彩を放つものである。例へば越後で取れた籾と尾張で取れた籾とを取り寄せて同じ田に蒔いて見給へ。同じ樣に肥料を與へ、同じ樣に手入れをしても取れた米の味は決して同じではなからう。まして複雜な人間の性情の事である。たとへ同一の條件のもとに置いても同じ姿をとり同じ光を放つであらうか。
 例へば同じ流儀を汲む二人の能樂師があつて、同じ扮裝をして同じ型で同じ能を舞つても、恐らく見る人の眼には全然別個のものと映ずるであらう。これは敢へて能樂のみとは言はない。凡ての藝術に於いてさうであらう。
 流儀の精神と能樂師と渾然と融和した時はじめて能樂の妙味が發揮されるのである。かくして能藝術の花は色とり/″\に咲き亂れるのである。
 話が妙な方に脱線してしまつたが、とにかく各流とも自流の定めを尊重し、自分一個の工夫や嗜好に依つて之れを枉ぐる事は固く禁ぜられて居る。
 かういふと一般の人々は恐らく斯う言はれるであらう。そんな流儀なんていふ小さな殼を脱け出して、もつと自由な道を歩む方が藝術に對して一…

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