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芸術統制是非
げいじゅつとうせいぜひ
作品ID56627
著者辰野 隆
文字遣い新字新仮名
底本 「「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻」 文藝春秋
1988(昭和63)年1月10日
初出「文藝春秋」文藝春秋、1935(昭和10)年7月号
入力者sogo
校正者染川隆俊
公開 / 更新2016-02-28 / 2015-12-24
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ある日のこと、某国大使館に永年勤務していたしごく実直な男が言うのに、自分も永い間、大使館に出入りする各方面の日本人に接したが、その中でも、ことに勲章を欲しがったり、欲しそうな言動をあえてするのは、いつも美術家に多く、文人に少ない。いったいどういうわけなのだろう、と。
 そこで僕は即座に答えて、それは美術家の方が文人よりも、色彩や光沢にははるかに敏感だからだろう、と。
 もちろん、僕は笑い話のつもりで答えたのだが相手の男は何か苦いものでも口の中に入れられたような顔をして、さらに言うのに、勲章を貰いたがっても、別に悪い事とは思わぬが、そういう人々が世間では、比較的に名利には恬淡な君子扱いにされて、きわめてアンデパンダンな画派の親玉株だなどと聴くと、つい自分はあさましい心持ちになって、芥溜でも覗くような嘔気を感ぜざるを得ぬ。やっぱり、芸術家は、どこまでも、一人一党で、名誉や利害には疎い方が、何となくゆかしくて快い、と。

 美術院問題が世間の耳目を聳動して、毎日の新聞に各派の美術家の群が、頭から湯気を立てて論じているのを僕も多少読んでは見たが読者を首肯せしめるほどの卓見には接しなかった。むしろ初めから、官辺の庇護などに頼らず、一人一党の見地に立って、もしともに進むなら、真に気の合った同志だけで、あくまで、民間の団体として、好むところに淫するとも、楽しみを改めたくない、というような清々しい、潔い主張が一としてなかった事は限りなく淋しかった。たとえ、新美術院の展覧会には断じて出品せずと主張しても、それはむしろケチ臭い打算や党派心の方が目立つのが面白くない。官権を必要とする奴らは奴ら、俺達は俺達だという毅然たる態度でもなく、役人などをてんで馬鹿にしたのん気さも陽気さも感じられない。これなくて、そもそも何の芸術家ぞと言いたくなる。ことに不思議なのは、官権に拠っていた旧帝展の一派と対立して、布衣の美術家たる事を誇りとしていたらしい派から、新官僚美術院の主なる委員が、ジェネラシヨン・スポンタネとして、しかも月足らずで、多数生まれ出た事である。彼らは宿年の同志にも謀らずして、かかるトライゾンを、あたかも自由な行動であるかのごとく、平然として恥ずるところがないのだろうか。

 僕はこのたびの事件を眺めながら、美術家の群は文人の群とは比べものにならぬほど、毎度ながら如才ないものだと感服した。彼らは、特に委員諸氏は、そろそろ自分達の画境のいき詰まりを覚って、官権にでも頼らなければ、老先きが案じられるとでも思ったのだろうか。自ら知るの明を褒めたくもなるが、しかし冷静に判断すれば、彼らの画境はそれほど衰えてはいないのである。その制作は相当に旨いのだ。ただ絵の旨さよりもさらに輪をかけて、その政治家ぶりや商人ぶりが旨いのである。

 某画家はこのたびの挙を機として、在来の無鑑査を撤廃するの…

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