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新書太閤記
しんしょたいこうき |
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作品ID | 56633 |
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副題 | 02 第二分冊 02 だいにぶんさつ |
著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「新書太閤記(二)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年5月11日 |
初出 | 太閤記「読売新聞」1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日<br>続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙1949(昭和24)年 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | トレンドイースト |
公開 / 更新 | 2014-12-25 / 2015-11-16 |
長さの目安 | 約 392 ページ(500字/頁で計算) |
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寧子の胸
「こひ!」
浅野又右衛門は、家に帰ると、すぐ大きな声で、妻の名をどなった。
於こひは、あわただしく、出迎えて、
「お帰りなさいませ」
「酒の支度せい」
いきなりいって――
「お客を拾うて来たぞ」
「それはそれは。どなた様でいらっしゃいますか」
「娘の友達だ」
「ま……」
と、後からはいって来た藤吉郎の姿を見て、
「木下様でございますか」
「こひ」
「はい……」
「武家の妻として、不埒であろうぞ。――今日までわしに黙っておるなぞ。木下殿と娘とは、夙くからお交際をして戴いておるそうではないか。存じておりながら、なぜわしに黙っていたか」
「お叱りうけまして、恐れ入りました」
「恐れ入るではすまない。とんだ親馬鹿を知られてしもうたわ」
「けれどお手紙などいただいても、寧子は、私に隠していたことはございませぬ」
「当りまえじゃ」
「それに、寧子は、聡明でございます。決してまちがいはないと、母のわたくしが、信じておりますゆえ、世間の男たちから、ままつまらぬ文など送られても、左様なこと、いちいち貴方様までの、お耳を煩わすまでもないことと存じまして」
「その通り、そちまでが、わが娘を買いかぶっている。――わからぬぞ、この頃の娘も、若い者も」
と、立ち塞がれて、上がり口に立ち淀んでいる藤吉郎を振り顧って、
「はははは」
と、笑った。
藤吉郎は、ここでも、頭ばかり掻いていた。しかし、恋人の家へ、恋人の父に誘われて来たのは、何か大へんな恩遇に恵まれたような気がして、動悸を覚えた。
「さ。――お通り」
と、又右衛門は、先に立って、客間へ彼を誘った。
客間といっても、わずか十畳の一室が、この邸の、最上の部屋だった。
弓之衆ばかりが住んでいるこのお長屋も、きょう彼が見て来た自分の屋敷と、似たり寄ったりの、小さな貧しい家だった。
もっとも、織田家の一藩のすべてが――老職から足軽まで、そう差別のない程度の、質素ではあったが、何しても、武具のほか、客間にもさして目につく家財もなかった。
「寧子はどこへ行った。寧子のすがたが見えぬではないか」
「自分の部屋におりまする」
と、彼の妻は、客へ、白湯など汲んですすめながらいう。
「なぜお客へ、改めてごあいさつをしに来ぬか。わしがいれば、逃げまわっておる」
「そういうわけではございませぬが、外着をかえて、髪など梳いているのでございましょう」
「いらざること。はやく手伝わせて、酒の支度して来い。まずい手料理など、藤吉郎どのに、お目にかけてみるがよい」
「いや、もう」
と、藤吉郎は、体を固くして、恐縮した。
城内の柴田、林などの、手強い重臣たちからは、ひどく押し太い、厚顔な男と睨まれている彼も、ここでは甚だ羞恥がちな、一箇の好青年でしかなかった。
寧子は、薄化粧して、やがて挨拶に出て来た。
「なんのおかまいも出来…