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桜島
さくらじま
作品ID56635
著者梅崎 春生
文字遣い新字新仮名
底本 「桜島・日の果て・幻化」 講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年6月10日
初出「素直 創刊号」1946(昭和21)年9月
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-01-01 / 2016-01-01
長さの目安約 75 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 七月初、坊津にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下す峠で、基地隊の基地通信に当っていた。私は、暗号員であった。毎日、崖を滑り降りて魚釣りに行ったり、山に楊梅を取りに行ったり、朝夕峠を通る坊津郵便局の女事務員と仲良くなったり、よそめにはのんびりと日を過した。電報は少なかった。日に一通か二通。無い時もあった。此のような生活をしながらも、目に見えぬ何物かが次第に輪を狭めて身体を緊めつけて来るのを、私は痛いほど感じ始めた。歯ぎしりするような気持で、私は連日遊び呆けた。月に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、峠の上を翔った。ふり仰ぐと、初夏の光を吸った翼のいろが、ナイフのように不気味に光った。
 或る朝、一通の電報が来た。
 海軍暗号書、「勇」を取り出して、私が翻訳した。
「村上兵曹桜島ニ転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投サレ度」
 午後、交替の田上兵長が到着した。
 その夜、私はアルコールに水を割って、ひとり痛飲した。泥酔して峠の道を踏んだ時、よろめいて一間ほど崖を滑り落ちた。瞼が切れて、血が随分流れた。窪地に仰向きになったまま、凄まじい程冴えた月のいろを見た。酔って断れ断れになった意識の中で、私は必死になって荒涼たる何物かを追っかけていた。
 翌朝、医務室で瞼を簡単に治療して貰い、そして峠を出発した。徒歩で枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度の展望に目を見張った。何故此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を噛むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別という感傷が私の肉眼を多分に歪めていたとしても――

 枕崎から汽車に乗って、或る小さな町についた。そこでバスに乗り換えるのである。しかし日に一回のそのバスが、もはや、通過したあとであった。
 軍隊のトラックを呼び止めて、それに便乗する手は残っていた。しかしそれも物憂く、街の中央にある旅館に入って行った。そして飯をたべた。縁側に立って、夕方の空のいろを眺めていると、通りかかった若い海軍士官が私に声をかけて来た。私は、私の旅行の用向きを答えた。それから此の士官の部屋に行き、煎豆を噛みながら、暫く雑談をした。
 やはり坊津の、山の上にある挺身監視隊長、谷中尉と言った。背が低い、がっしりした、眼の大きい男である。二十三四歳に見えた。先日、博多が空襲にあった際、博多武官府にいたと言う。その時の話をした。博多は、私の古里であり、博多にいる私の知己や友人のことを思い、心が痛んだ。
「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」
 谷中尉は、煎豆の殻をはき出しながら、じろりと私の顔を眺め、そう言った。

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