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日の果て
ひのはて
作品ID56636
著者梅崎 春生
文字遣い新字新仮名
底本 「桜島・日の果て・幻化」 講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年6月10日
初出「思索 秋季号」1947(昭和22)年9月
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-03-10 / 2016-02-01
長さの目安約 81 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 暁方、部隊長室から呼びに来た。跫音が階段を登り網扉を叩く前に、落葉の径を踏んで来る靴の気配で、彼は既に浅い眠りから浮上するようにして覚めていた。当番兵の佐伯の声である。網扉のむこうで薄黝く影が動くのが見えたが、すぐ行く、と彼は返事をしたまま再び瞼をふかぶかと閉じていた。軍靴の鋲が階段に触れる音が、けだるい四肢の節々に幽かに響いて来る、跫音はそのまま遠ざかるらしかった。
 暫くして彼は寝台に起き直り、ゆっくりした動作で身仕度を済ませ長靴をつけた。粗末な小屋なので動く度に床がきしみ、腕が触れる毎に壁はばさばさと鳴った。蝶番いの錆びかけた網扉を押し階段を降りると、おびただしい朝露である。ふり仰ぐと密林の枝さし交す梢のあわいに空はほのぼのと明けかかり、暁の星が一つ二つ白っぽく光を失い始めていた。梢から梢へ、姿を見せぬ小鳥たちが互いに啼き交しながら移動して行くらしく、また遠くで野生の鶏がするどい声でつづけざまに啼いた。大気は爽快であった。内地の月見草に似た色の小さい花が小径をはさんで咲き乱れ、歩いて行く彼の長靴の尖はそれらに触れてしたたか濡れた。
 径は斜めにのぼり更に樹群は深くなる。そこが煤竹色の部隊長の小屋であった。木と竹を簡単に組み合せ、屋根をニッパで葺いた単純な作りである。床は湿気を避けて人の背丈ほどもあるが、階段を踏むと自らぎしぎしと鳴った。開き扉を押し中に入ると、部屋の内はまだ暗かった。窓の前に据えた竹製の机に肱をつき、隊長は椅子にかけたまま彼が入って来たのも気付かぬふうであった。扉のあおりでゆらぐ蝋燭の光の中では、その横顔は何時になく暗く沈んで見えた。机の上には空薬莢を花瓶とし、黄色の花が二三本さしてある。書類綴りの耳を隊長の指が意味なく弄んでいた。彼はぼんやり部屋の中を見廻しながら、暫く床の上に佇んでいた。天井の暗みにひそむらしい虫が突然キキキと啼いたが、隊長は今まで椅子にもたせかけていた軍刀の柄を掌で膝の間に立てながら、しかし、彼にはやはり横顔を見せたまま、低い乾いた声で呟いた。
「宇治中尉か」
 そして窓の方に顔をあげながら苦しそうに眼を閉じ、椅子の背に肩を落した。
「――実は今日、花田軍医のところに連絡に行って貰いたいのだ。花田が何処にいるか、場所は判っているだろうな」
 彼の返事を待たず、椅子をぎいと軋ませ隊長は身体ごと彼の方に向きなおった。そして激しく口早に言った。
「射殺して来い。おれの命令だ」
 朝の薄い光が窓から斜めに隊長の頭に落ちていたが、近頃めっきり白さの増した頭髪やまた形相の衰えが、蝋燭の火影の中で隈をつくり、かえって険悪な表情に見えた。そのまま隊長の視線はすがるように彼をとらえて離さなかった。心の底でたじろぐものがあって、彼は思わず足を引いた。長靴の裏に食い込んだ礫が堅い床木に摺れて厭なおとを立てた。掌で洋袴をしきりにこすり、…

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