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牧野富太郎自叙伝
まきのとみたろうじじょでん
作品ID56695
副題02 第二部 混混録
02 だいにぶ こんこんろく
著者牧野 富太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「牧野富太郎自叙伝」 講談社学術文庫、講談社
2004(平成16)年4月10日
入力者kompass
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2014-02-26 / 2014-09-16
長さの目安約 79 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

所感


何時までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば

 われらの大先輩に本草学、植物学に精進せられた博物学者の錦[#挿絵]翁伊藤圭介先生があった。珍しくも九十九歳の長寿を保たれしはまず例の鮮ない芽出度い事である。しかるに先生の学問上研鑽がこの長寿と道連れにならずに、先生の歿年より遡りておよそ四十年程も前にそれがストップして、その後の先生は単に生きていられただけであった。そうすると先生の研究は直言すれば死の前早くも死んでいるのである。学者はそれで可いのか、私は立ちどころにノーと答える事に躊躇しない。
 学者は死ぬる間際まで、すなわち身心が学問に役立つ間は日夜孜々としてその研鑽を続けねばならない義務と責任とがある。畢竟それが学者の真面目で学者の学者たる所以はそこにある。「老」という事は強いて問題にすべきものではなく、活動している間は歳は幾つであろうと敢てそれを念頭に置く必要は無い。足腰が立たなくなり手も眼も衰え来ってために仕事が出来なくなれば、その時こそはじめて「老」が音ずれて真の頽齢境に入るのである。そうなれば全く世に無用な人間となりはて、何時死ぬるも御勝手で何も遠慮することには及ばぬ事となる。
 自分は平素上のように考えているので、たとい年は取ってもなるべく仕事の出来る期間の長からん事を祈っている。そして前の伊藤先生の場合を回想すると先生の長寿はこの上も無く芽出度いが、その疾く放棄せられた研究心はその長寿に比べては一向に御芽出度く無い。故に学者としての先生は決して九十九歳では無く、それよりはずっと短くおよそ六十歳位の生命であったと断ずべきだ。自分は無論先生の比類稀れな長寿を祝する事には異存は無いが、しかし一面早くも研鑽心を忘れた先生を弔する事にも敢て臆病では無いのだ。

私の健康法


 昭和二十二年十一月一日、東京の中村舜二氏という方から『高齢一百人』と題する書物を用意するために、条項書きで左の回答を求められたので、すなわち筆を馳せて同十二月にその返答を書き綴り同氏へ送ったものが左の通りであった。そして右同氏の書面には「老生事多少たりとも文献報国の微忱不禁此度び現代各階級より御高齢の諸名士一百人を厳選仕りその各位より健康長寿に干する御感想を伺いそれを取り纏めて一本として最も近き将来に出版仕度存候」とあった。

〔一〕特に健康法として日常実行しつつある何等かありや否
 何にも別に関心事なく平素坦々たる心境で平々凡々的に歳月を送っています。すなわちかく心を平静に保つ事が私の守ってる健康法です。しかし長生きを欲するには何時もわが気分を若々しく持っていなければならなく、従って私はこの八十六の歳になっても好んで、老、翁、叟、爺などの字を我が姓名に向かって用いる事は嫌いである。例えば牧野翁とか牧野叟とかと自署し、また人より牧野老台などとそう書かれる…

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