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悪人の娘
あくにんのむすめ |
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作品ID | 56700 |
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著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「野村胡堂探偵小説全集」 作品社 2007(平成19)年4月15日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 阿部哲也 |
公開 / 更新 | 2015-10-02 / 2015-09-08 |
長さの目安 | 約 28 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「お願いで御座いますが…………」
振り返って見ると、同じ欄干にもたれた、乞食体の中年の男、鳴海司郎の顔を下から見上げて、こう丁寧に申します。
春の夜の厩橋の上、更けたという程ではありませんが、妙に人足が疎らで、風体の悪い人間に声をかけられると、ツイぞっとするような心淋しい晩です。
見ると、人品骨格満更の乞食とも思えませんが、お釜帽の穴のあいたのを目深に、念入のボロを引っかけて、片足は鼠色になった繃帯で包み、本当の片輪かどうかはわかりませんが、怪し気な松葉杖などを突っ張って居ります。
時も時、場所も場所、「煙草をくれ」か、精々「電車賃をくれ」ぐらい、よくある術だと思い乍ら、鳴海司郎はかくしへ手を入れて、軽くなった財布を引出そうとすると、
「イエイエ、お金を頂き度いと申すのでは御座いません。お願いですから私の傍から少し離れて、向うの方を向いたまま、私と全く関係の無いような様子で、私の申すことを聞いて頂き度いのです」
乞食にしては言葉が上品で、それに言う事がヒドク変って居ります。好奇心の旺んな若い男でもなければこんな突飛な申出を、素直に聴かれるものではありませんが、鳴海司郎、幸にして年も若く、その上独り者で金こそありませんが、好奇心ならフンダンに持ち合せて居ります。社会的地位と申しますと、学校を出たての、一番下っ端の会社員で、相手が乞食だろうが泥棒だろうが、少しも驚くことではありません。言われる通り、二三歩遠退いて、灯の疎らな本所の河岸の方を向いたまま、
「サア、これでよかろう」
相手になってやるぞと言わぬばかりに、後を促します。
「失礼な事を申し上げてすみませんが……何を隠しましょう、私は今重大な敵に監視されて居りますので、正面にお話をして、貴方に御迷惑があるといけないと思ったので御座います。こうして居る内にも、どこに、どんな眼があって、私共を見張って居るかわかりません」
段々気味の悪いことを申しますが、その代り、この男は本当の乞食でない事だけは確かです。乞食にしては言葉が知識的で、髯こそ茫々と生えて居りますが、物越し態度何処となく、贅沢に育った社交的な人間らしいところがあります。
「実は」
乞食は言い憎そうに言葉を淀ませます。
「もう少しすると、この橋へ一人の娘がやって参ります。その娘の上に、どうかしたら、思いもよらぬ災難が降りかかるのではないかと、どうも心配でたまりません」
「例えば、どんな事が?……」
「身を投げるとか――悪者共に襲われるとか――」
「それがわかって居ながら、なぜお前が保護をしてやらないのだ」
当然の事を一本、鳴海司郎が問い返しますと、乞食は非常にあわてた様子で、
「そ、それが今申し上げたような事情で、私は飛出して助けるどころか、顔を見せることさえ出来ないのです」
「オイオイいい加減にしないか、こう見えても僕は酔って…