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死の舞踏
ダンスマカブル
作品ID56708
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂探偵小説全集」 作品社
2007(平成19)年4月15日
初出「文芸倶楽部」1928(昭和3)年9月増刊
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-11-05 / 2015-09-01
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「珍らしい事があるものだネ、東京の佐良井から手紙が来たよ」
「幽香子さんからですか」
「イヤ、あの厭な亭主野郎からだ」
「まあ」
 愛子は、その可愛らしい眼を一杯にあけて、非難するような、だけど、少し道化たような表情を私に見せるのでした。
 長い長い演奏旅行を了えて、私と、私の許婚の愛子は、ピアノを叩き過ぎて尖った神経とあわただしい旅に疲れた身体とを、暫らくこの淡路島の知辺に静養して居たときの事です。
 模造紙の白い大きい封筒を破ると、その中からは、事務的な達筆で書いた手紙と、四つ折にした楽譜が二三枚出て来ました。
「オヤ、変なものを送って来たよ」
「何んの楽譜でしょう?」
「ピアノには相違ないが、可笑しいネ。一枚、一枚、皆んな違って居るようだが――これはベートーベェンのソナタ・アルバムから滅茶滅茶に引き千切った譜らしいよ」
「マア、何うなすったのでしょう」
 愛子は、私の籐椅子の側へ、その驚き易い顔を寄せました。順序も何も構わずに、アルバムの中から引きむしられた楽譜は、どんなに無意味なものかという事は、ピアニストを許婚に持つ愛子には、解り過ぎるほど解って居たのです。
 この怪奇な物語の筋を進める前に、私は引きむしられた楽譜を送って来た幽香子の事をお話して置かなければなりません。
 幽香子、幽香子、何んという美しい淋しい名でしょう。これは私の義理の妹で、今は実業家佐良井金三の夫人になって居る、この世の中で、一番不幸な女です。何うして不幸せかというと、それは、幽香子の身に付いた、巨万の財産があったからで、そんなものがあるばかりに、実業家と称する佐良井金三の、何度目かの妻になる運命を背負わされてしまったのです。
 幽香子は、相当に美しくもあり、私の妹分で一緒に育った関係から、ピアノもかなり上手に弾きましたが、内気で陰鬱で引っこみ思案で、実業家の夫人という肌合の女ではありませんでした。それがどうして、名題の悪で通って居る佐良井などと結婚したかというと、それにはいろいろ事情もあったのですが、兎に角、男前も口前も十人並以上で、その上三人分も智慧のある佐良井が、世間見ずの娘を口説き落すのは、朝飯前の仕事でしか無かったと言えば充分だろうと思います。
 一旦の過ちから、こんな男に嫁いだ幽香子の不幸は申すまでもありません。いくらか芸術的な天分も持った憂鬱な幽香子と、金儲のためには、どんな事でもして退けようという肌合の佐良井とは、結婚後一ヶ月経たない内に、到底並び立ちそうもないことが判ってしまいました。
 けれども、佐良井に取って、それは飼犬の毛並が少し気に入らない程の事件でもなかったのです。幽香子の持って居る巨万の富さえ自由になれば、幽香子は毎日メソメソ泣いて居ようと自分の室でピアノばかり叩いて居ようと、そんな事は一向関係した事では無かったのです。
「幽香子も可哀想だ」…

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