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葬送行進曲
ヒューネラル・マーチ
作品ID56711
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂探偵小説全集」 作品社
2007(平成19)年4月15日
初出「文芸倶楽部」1931(昭和6)年4月増刊
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-11-17 / 2015-09-01
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

呪われた名曲

「どうなさいました、貴方」
 若い美しい夫人の貴美子は、夫棚橋讃之助の後を追って帝劇の廊下に出ました。フランスから来た某という名洋琴家の演奏が、今始まったばかりと云う時です。
「とても我慢が出来ない、あの曲は俺に取ってはヒドク不吉なんだ」
「マア――」
 ショパンの「葬送行進曲ソナタ」を第一楽章だけ聴いて飛出すのは、随分乱暴な態度だとは思いましたが、美しい夫人は別に逆らおうともせず、玄関前の大きい丸椅子の上へ夫と並んで深々と身体を埋めました。
「あの曲を聴くと碌な事は無いんだ、一応プログラムを見て来るとこんな馬鹿な目に逢う筈は無いが、まさか初日のプログラムに、あんな曲目を出す筈が無いと思ったのが仰々の間違さ」
 棚橋讃之助は葉巻へライターを鳴らして、享楽的に紫の煙を吐き乍ら、夫人を相手に、それでも心持声を潜めます。
 三十七八の、実業家らしく脂の乗って来た風采ですが、年にも風采にも紛らせない、坊ちゃんらしいところのあるのは、苦労知らずに先代の仕事を承け継いで、伝統と暖簾と忠実な支配人のお蔭で、素晴らしい儲けを黙って受取って居られる身分のせいもあったでしょう。
 充分に若くてハイカラで、妖艶な感じのする夫人は、良人の頑固な態度が心憎いと思う様子で、クッションの上を摺り寄って、男の丸々と肥った膝に、華奢な片手を掛けました。
「あらそんな、大きい声をなさると、中へ聞えますワ」
「併しそんな事を言うのも、決して根拠の無いことでは無いんだ、知っての通り、仏滅も鬼門も担がない俺だが、何うしたものかあの葬送行進曲だけは恐ろしいよ」
「どんな事がありましたの?」
 気味も悪くもあるが、充分好奇心を動かされたらしく、良人の顔を仰いで、いつも物強請をする時のように、大きい眼を細めて少し受け口の唇を歪めます。
「笑っちゃいけないよ――」
 讃之助は、もう葬送行進曲を了えて華やかな第四楽章のプレストに入ったらしい音を遠音に聞き乍ら、場所柄を超越した呑気さで話し出しました。
「俺の学生時代には、レコードに入って居るパッハマンの弾いたあの曲は不吉だと言われたものだ。俺の経験から言っても、あのレコードを買った翌る日の晩母に死なれたのを手始めに、あの曲のレコードを掛けて聴く毎に、何んかしら不吉な事が一つずつ起るんだ、全く不思議だったよ」
 其処まで言って讃之助は、フッと言葉を切りました。
「まア」
「最後に――之は話して宜いか悪いか分らないが、隆の母――話に聞いたろうが之はピアノをよく弾いた――それが生きて居る時好んで弾いたのはあの曲だったよ、それからまだある――」
 話は思いの外真剣になったので、貴美子夫人も美しい眉をひそめて、寒々と良人の側に寄りました。二十四五とも見えますが、何んとなく華奢な体質で、地味ではあるが贅沢な総模様を縫った羽織が、ソロリと肩を滑り落ちそう、何…

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