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焔の中に歌う
ほのおのなかにうたう
作品ID56718
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「野村胡堂探偵小説全集」 作品社
2007(平成19)年4月15日
初出「文芸倶楽部」1928(昭和3)年10月
入力者門田裕志
校正者阿部哲也
公開 / 更新2015-12-15 / 2015-10-23
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 温かい、香ばしい芙蓉の花弁が、そっと頬に触れた――。
 そう感じて深井少年は眼を開きました。
 多分今まで気を喪なって[#「喪なって」はママ]居たのでしょう、四方を見ると、全く見も知らぬ華麗な室の、南寄の窓の下に据えた、素晴らしい長椅子の上にそっと、寝かされて居るのでした。
「気がおつきになって? まあよかった」
 紅芙蓉の花弁と思ったのは、額口へ近々と寄った、この女の唇だったかも知れません。しかも、その美しい唇から、ビロードのようなタッチの滑らかな言葉が、深井少年をいたわるように、斯う響くのでした。
「随分心配したワ、これっ切り死なれたら、何うしようと思って――全く運転手のそそうよ、堪忍して頂戴ね、こんな可愛らしい坊っちゃんを殺したら、私はまあ、どうしたでしょう――」
 深井少年の頭には、漸く記憶が蘇って参りました。
 先刻――いや、それは昨日だったか一昨日だったか、それともツイ今し方だったか、はっきりは判りませんが――兎に角、フランス語の文典を暗誦し乍ら、番町の淋しい通りをやって来ると、いきなり横町から自動車が驀進して来て、アッと言う間もなく車輪にかけられた――。
 そこまでは知って居りますが、それから先は何んにもわかりません。
 自動車に擽かれたという記憶が蘇えると同時に、深井少年は本能的に身体を動かして見ました。何んとも言えない不安が、少年を駆ってそうさしたのです。けれども、仕合せな事に、手も、足も、頭も、胴も、別に痛むところはありません。
「マアそんなに手足を動かして、亀の子のようよ――、でも何処もお痛みはありません? 一寸立って御覧なさいな――マア、大きな坊っちゃん」
 深井少年は長椅子から飛降りるように、すっくと立上って見ました。
 この婦人は無遠慮に「坊っちゃん、坊っちゃん」と言いますが、深井少年は今年からもう大学生なのです。
 尤も顔立が何んとなく若々しいから、友達はからかい半分に「深井少年、深井少年」と言い慣わして居りますが、本当は深井清一といって、もう取って二十歳、深井少年と言われるのさえいい心持がしないのに「いくら何んでも、坊っちゃんはヒドかろう」深井少年は少しムッとしたものです。
「僕、深井清一というんです」
「あら御免なさいネ、ツイあんまり可愛らしかったんで、そう言ってしまったんです、そうお立ちになると、全く立派な大学生さんだワ、坊っちゃんなんて、すまないワネ」
 まことに操縦自在です。深井少年などでは歯の立つこっちゃありません。
「だけど、本当によかったワネ、あなたが、自動車の前へ引っくり返って、目を廻しなすった時は、私本当にどうしようかと思ったワ、幸い家が近かったから、運転手と助手に、ここまで運んでもらって、今しがた先生へ電話をかけたばかりのとこよ、そう早く直るとは思わなかったんですもの……そりゃ随分びっくりしたワ、ネ…

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