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ネバダ通信
ネバダつうしん |
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作品ID | 56735 |
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著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河」 岩波文庫、岩波書店 2002(平成14)年12月13日 |
初出 | 「花水木」文藝春秋新社、1950(昭和25)年7月15日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | najuful |
公開 / 更新 | 2023-04-11 / 2023-04-04 |
長さの目安 | 約 24 ページ(500字/頁で計算) |
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「積雪水量測定の父」
ネバダ通信は、まずネバダ大学の教授チャーチ博士の話から始めなければならない。チャーチ博士の名を初めて知ったのは、一九三六年だったかと思う。国際雪氷委員会のエヂンバラ総会の報告書が届いた時、その総裁としてのチャーチ博士を初めて知ったのである。
それから今年で十三年になる。その間戦争の期間を除いて、ずっと親しい交際をつづけてきた。ただしそれは手紙と論文とによる交際であって、会ったのは、今度が初めてなのである。
一九三九年だったかと思うが、ワシントンでこの国際雪氷委員会の第三回総会があった時、チャーチ博士から出席を希望された。しかし当時は今度の戦争の前で、世界中の空気も険悪であったし、私も療養中だったので、出席は断念した。その代りに、その前年初めて成功した人工雪の研究過程を、顕微鏡映画に撮り、英文のアナウンスを入れて、総会に送った。
これがチャーチ博士と急に親交を結ぶようになった機縁であった。映画は案外好評であったらしい。総会後チャーチ博士は、アメリカの方々の大学や研究所で、この映画を見せたそうである。そしてその都度反響の様子を、私の方へ手紙でいってきた。私の方からも時々実験の模様などを報告して、文通は戦争の始まるまでずっと続けていた。
戦争中はもちろん交渉が絶えていたが、戦後にその委員会の再組織が企てられ、その機運が熟して、一九四八年の八月に、戦後初めての総会が、ノルウェイのオスロで開かれることになった。その会議には、私も招待されたのであるが、手続上の都合で中止した。チャーチ博士はそれをたいへん残念がって、加奈陀の北極研究所長であり、かつ国際雪氷委員会の事務局長であるベアード博士とともに、今度私をアメリカと加奈陀とへ招聘する世話をしてくれた。非常に親切な人で、この半年の間、恐らく一月に三本平均くらい、手紙を寄こしてくれた。電報も二度打ってきた。家のものが「また恋人からの手紙ですよ」と笑うくらいであった。
ところで十何年来の希望が達せられて、いよいよ今度初会見が実現することになった。七月十三日の午後二時四十五分。飛行機がリノ飛行場の上空で、着陸の姿勢をとった時は、われながら少々興奮したようであった。十三年来の「知己」に初めて会うのだから、少しくらい興奮してもまあ仕方がない。ネバダの真夏の強い日光が、空港の建物の影を、真黒く地上に印している。その影と光との境のところに、チャーチ博士が、帽子も冠らずに、立っておられた。不思議なもので、写真すら一度も見たことがないのに、すぐそれと分った。ただ一つ意外だったことはチャーチ博士の年齢であって、『老齢学』でもちょっと書いたように、今年アメリカ流の八十二歳であった。
リノ滞在一週間のうち、ネバダ山脈中の雪研究所を訪ねた二日を除いては、毎日のように、暇さえあれば、チャーチ博士の研究室でぶらぶら…