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![]() きたきゅうしゅうのかま |
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作品ID | 56740 |
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著者 | 柳 宗悦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「柳宗悦 民藝紀行」 岩波文庫、岩波書店 1986(昭和61)年10月16日 |
初出 | 前文「西武毎日新聞 佐賀版、長崎版」1931(昭和6)年7月17日<br>高取「西武毎日新聞 佐賀版、長崎版」1931(昭和6)年7月18日<br>有田の焼物「西武毎日新聞 佐賀版、長崎版」1931(昭和6)年7月24、25日、8月1日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 木下聡 |
公開 / 更新 | 2019-10-13 / 2019-09-27 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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もし日本の各地に散らばる窯を、地図に赤く印し附けたら、それは山を飾るつつじの如く日本を美しく彩るであろう。その区域の普遍と種類の多様とにおいて比敵する国はおそらくないかもしれぬ。日本人はとりわけ焼物が好きである。かつてそうであるが今もなおそうである。かくまでに焼物を愛する心は、他の国で見ることができぬ。茶器の場合の如き、他国のものをも自らの創作にしたかの観がある。茶入も茶碗も日本にだけ歴史があるからである。
だが日本の焼物は真に様々である。様々であるから、一様に美しくはなく、また一様な美しさではない。派手なもの、渋いもの、豪れるもの、貧しいもの、飾るもの、用いるもの、等しく焼物とはいうが美においては右と左とに別れる。見る眼により心の置場により選ぶ美の道は異なる。色鍋島と唐津とは持主が違うであろう。もし二つとも有っているなら、どっちでもいいような持主であろう。
だが質において種においてこの二つの方向をともに肩を並べて産んだのは九州の窯である。特に筑紫一帯の諸窯は文禄の役この方、花の如く咲き乱れた。あるいは温室にあるいは野辺にその香を競うた。その壮観はよく他窯の比べ得るところではない。(近時本山氏の事業として大宅氏の試みられし発掘、または水町、金原両氏の努力によって幾多の古窯跡が明るみに出された。採集された陶片はすでに数万に上るであろう。上御用窯から下粗陶器に至るまで、千変万化である、これによって筑紫地方の窯業史も、筆を新に染直さねばなるまい)。
去る四月末、私は旬日をそれらの地方に過ごした。だが私の選んだ任務は、古窯の調査ではない、また発掘せられたものの吟味ではない。長い伝統を引いて今日も如何なるものが作られつつあるかを知るのが眼目であった。いわば活きつつある窯の調査である。丁度古作品がこの探求に重要である如く、新作品の調査は古器物の歴史にまた鑑賞に重要なものとなろう。だが私がとりわけ注意したのは雑器の世界である。派手な領域ではなく、質素な下使いの実用品である。
それには二つの理由がある。その領域に一番古い歴史のつながりがあるからである。派手なもの、上手のものは、時に従って流れる姿を追うている。だが日常の用品は粗末にされたためか、かえって昔のままに残されている場合が多い。このことは第二に古作品の有つ美しさがこの領域に今も一番よく保たれていることを意味する。正しい作は貧しいものにかえって多いのである。それは意識の罪に煩わされることが少いからである。温室の花は虫に弱い、野の花はこれに比べて遥に健かである。私は今も咲くその健かな花を見るために旅立ったのである。
高取
福岡と姪浜との間に西新町がある。そこの皿山に歴史で名高い高取の窯がある。立つ煙は今も賑やかである。やや登り坂の両側に仕事場が軒を並べている。筑紫の窯を語るものは高取を忘れない。
だが今…