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新書太閤記
しんしょたいこうき |
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作品ID | 56756 |
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副題 | 05 第五分冊 05 だいごぶんさつ |
著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「新書太閤記(五)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1990(平成2)年6月11日 |
初出 | 太閤記「読売新聞」1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日<br>続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙1949(昭和24)年 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | トレンドイースト |
公開 / 更新 | 2015-10-01 / 2016-01-03 |
長さの目安 | 約 404 ページ(500字/頁で計算) |
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とらと虎
湖畔の城は、日にまし重きをなした。長浜の町には、灯のかずが夜ごとのように増えてゆく。
風土はよし、天産にはめぐまれている。しかも、城主に人を得て、安業楽土の国とは、おれたちのことなれと、謳歌せぬ領民はなかった。
ここで一応。
秀吉の家族やら家中の人たちを見覚えておくのも無益でなかろう。
なぜなら、彼の幸福は今の家庭にあるし、彼が一国の主として持った家中の備えもここに整ったかの観があるからである。
まず、家庭には。
母があり、妻がある。
そして近頃、子もあった。
於次丸どのという。
けれど、寧子が生んだのでも、彼が他の女性にもうけた子でもない。ふたりの仲に子がないのはさびしかろ。そう主君の信長がよくいうことばから、信長の第四子をもらって、養子としたのである。
秀吉の弟、あの中村の茅屋で、よくピイピイ泣いていた弟の小竹は、いまはすでに、立派な武将となって、羽柴小一郎秀長と名のり、そのかたわらに業を援けていた。
また、妻の弟の木下吉定も。それにつながる親族たちも。
重臣には、蜂須賀彦右衛門、生駒甚助、加藤作内、増田仁右衛門、すこし若い家士のうちには、彦右衛門の子、父の名をついだ小六家政、大谷平馬吉継、一柳市助、木下勘解由、小西弥九郎、山内猪右衛門一豊など、多士済々といえる。
いやもっと、元気いっぱいで、いつも騒々しく賑やかなのは、小姓組であった。
ここには。
福島市松がいる。加藤虎之助がいる。仙石権兵衛がいる。芋の子やら雀の子やら分らないのがまだ沢山いる。
よく喧嘩があった。たれも止めないのでいい気になってやる。大きな福島市松などが、よく鼻血を出して、鼻の穴に紙で栓をかってあるいているのが見かけられたりする。
どうした?
とも誰も訊かない。
かれらはよい侍になるのが目的なので、侍のみがいるこの城中に起居していることは、すでに学寮にいる学生も同じだった。いいこと悪いことみんな真似する。取捨分別はおのずから知るに任せてある。
中でこの頃、急に大人しくなったのは虎之助である。同輩の茄子や芋が何をして遊んでいようと、
「われ関せず」
というような顔して、午まで側仕えをすますと、書物をかかえて、さっさと城下へ出て行ってしまう。
「あいつすこし生意気になったぞ。この頃、書物などかかえこんで」
とかく、いじめられるが、この頃は、前のようにかんかんに怒って来ない。にやにやして、いつもすうと行ってしまう。
市松も、彼と性が合わないので、
「大人ぶっていやがる」
と、甚だ怪しからんように、年下の小姓仲間をよく煽動した。
虎之助は、ことし十五、去年から城下の軍学者塚原小才治のやしきへ授業にかよっているのである。小才治は同姓塚原土佐守という剣人の甥とかいうことだった。いずれにせよ、その頃にはまだ道場という設けはなく、ひとりの…