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新書太閤記
しんしょたいこうき
作品ID56759
副題08 第八分冊
08 だいはちぶんさつ
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「新書太閤記(八)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年7月11日
初出太閤記「読売新聞」1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日<br>続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙1949(昭和24)年
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2016-04-02 / 2016-09-18
長さの目安約 393 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

天機刻々

 依然。――秀吉はさっきの所に坐ったままであった。
 燭の下に、灰となった薄いものが散っていた。長谷川宗仁からの飛脚状を焼いたものと思われる。
 飛脚の者を始末しおえた彦右衛門と久太郎秀政が、座にもどって来ると、間もなく、
「お見えなされました」
 と、石田佐吉が、帰りを告げ、その佐吉が小姓部屋へ退がると、入れ代りに、黒田官兵衛孝高がびッこを曳きながら入って来た。
「やあ」
 と、眼で迎える秀吉も、不自由な脚を折って、どかと坐る人も、いつもながらの風であった。
 殊に官兵衛は、伊丹城中の遭難以来、不治の隻脚となっているので、君前でも、そのための横坐りはゆるされていた。なおついでにいえば、あのときの獄中生活でできた皮膚病も痼疾となったかたちで、今なお頭の毛の根はそれが治りきっていない。――だから余り燈火に近くすわると、そのうすい髪の根までが透いて見えて、この体躯矮短にして胆斗のごとき奇男児の風貌、いやが上にも魁偉に見せ過ぎる嫌いがある。
「この夜更けに、何事でございますか。……お召しとは」
 いつまで、ものいわぬ秀吉へ、官兵衛からそういった。秀吉は傍らを向いて、
「彦右衛門から話せ」
 と云い放したまま、腕拱みして、首を埋めてしまった。こういう間にも、むだなく思考をめぐらしているように見えるし、また、ともすれば嘆息となる意志の崩れを如何ともし難いような姿とも眺められる。
「官兵衛どの。驚かれるなよ」
 こう厳粛な悲痛味を予告しながら、彦右衛門は手短に事実を告げた。長谷川宗仁からの飛脚もそのまま語った。豪気をもって鳴る官兵衛孝高の顔いろも、それを聞かされた一瞬は凡人以外のものではなかった。
「…………」
 何もいわず官兵衛もまた、大きな息と共にその胸へ腕を拱んでしまった。
 そして時を措いて、じろと額ごしに同じ姿でいる秀吉を見た。
 と、堀秀政はすすと膝をすりよせて、秀吉へ云った。
「はや過ぎたるを思うてみても致し方ござりますまい。世風は今日から吹き変りました。しかも風は順風と覚えられます。お船出の帆をお揚げなさるべき時節こそ到来。ふたつか一つかの御分別、いまこそ肝腎かなめかとぞんじまする」
 それに応じて幽古も云った。
「秀政どのの御意、まことに至言。世間の様態、ものに喩えて申すならば、吉野の桜、雪とけて、東風の訪れに会いたるごとく、人もみな、やがてお花見を待つ心地やらんと思わるる。早々、お花見のおしたく、遊ばされますように」
「よういわれたぞ、御両所――」
 と、官兵衛孝高も膝をたたいた。
「天地と永劫、万象も春秋に、そのすがたをかえてこそ、生命も久し。――そのあめつちの心をもて大きく申さば、このたびのこととて、めでたしといえぬこともない。吉野のさくら、時来らでは見られぬものよ。雨情を孕み、風の陽気に、おのずから咲き出るに、何の御分別や要り申さん…

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