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新書太閤記
しんしょたいこうき
作品ID56761
副題10 第十分冊
10 だいじゅうぶんさつ
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「新書太閤記(十)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年8月11日
初出太閤記「読売新聞」1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日<br>続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙1949(昭和24)年
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2016-06-01 / 2016-09-18
長さの目安約 362 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

初花

 一年。――実にわずか一年の間でしかない。
 去年天正十年の初夏から、ことし十一年の夏までの間に、秀吉の位置は、秀吉自身すら、内心、驚目したであろう程な飛躍を遂げた。
 明智を討ち、柴田を斃した。
 滝川、佐々も膝を屈した。
 丹羽長秀はひとえに信を寄せて協力し、前田利家は義を示していよいよ旧誼に変るなきを努めている。
 およそ、信長の分国は、いまは一国余さず、秀吉の意志下にあった。いや、その信長頃には、なお敵国であった分国外の諸州さえも、この一年に、その関係は、まったく一変を呈している。
 信長の覇示にたいしては、あれほど長年に、また執拗に、対抗を続けて来た毛利も、いまは質子を送って、盟下に属し、九州の大友義統も、こんどは祝書を寄せて、款を通じて来たし、また讃岐の十河存保も、和を求めている有様である。
 さらに。
 越後の上杉景勝も、慇懃、賀使を送って、盟約を履み、四道の風は悉く、秀吉に靡き、秀吉の袂に吹くを、歓ぶかのような状況である。
 ――が、ただひとり、宿題の人物がある。
 東海の徳川家康だ。
 家康が、秀吉のこの旭日昇天のごとき擡頭を、果たして、どう観ているかは、大きな疑問的存在としなければならない。
(彼が肚は?)
 と、秀吉の方でも観ていよう。
(さても筑前という者は)
 と、家康もまた刮目しているにちがいない。
 そしてこの両者の間は、ここ久しく、音信も絶えていた。双方、ヘタな打つ手は休むに似たり――と無外交の空間に推移を委しておいたものといえよう。――が、それは例の無為無策のことではない。既成的事実をもってそれを示してゆく秀吉の“位押し”と、黙々と先ず自己の陣営をかためている肚芸のかねあいにあった期間なのである。
 しかし、この無表情の持続は、やがて家康の方から外交形式をとって動いて来た。
 秀吉が京都へ帰還してからやがて間もないうちにである。それは五月二十一日のこと。徳川家第一の宿将、石川伯耆守数正は、家康の旨を帯びて、山崎宝寺城に秀吉を訪い、
「このたび、柳ヶ瀬表の御大捷は、まこと天下の治、定まるの日到来と、主人家康も、御同慶の至りにたえず、かくは微臣に仰せ遣わされ、御祝のため、罷り越えてござる」
 と、披露厳かに、銘“初花”の茶入れを献じた。
 初花の茶入れは、夙に天下に鳴っている銘品だった。からもの肩衝で、これが東山義政の手に入ったとき、義政がよろこびの余り「くれなゐの初花染めの色深く思ひし心我れ忘れめや」の一歌を詠じたというのでこの銘がある。
 近来、とみに茶にも熱心な秀吉が、まずこの贈物に非常な喜悦を見せたであろうことはいうまでもない。しかし、より以上な満足は、家康から先に、こういう礼を執って来たことにあったことは、これまた、いうまでもないことだった。
 数正は、即日、浜松へ帰国する予定であったが、秀吉は、
「そう急がず…

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