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![]() あめのひ |
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作品ID | 56763 |
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著者 | 辰野 隆 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本の名随筆43 雨」 作品社 1986(昭和61)年5月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2015-02-28 / 2015-01-16 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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三年前に亡くなった母は、いたく雨を好んだ。僕の雨を愛づる癖は恐らく母から承けたのであろう。いまそかりし昔、僕はしばしば母と閑話を交えながら、庭に降る雨を眺め暮したことを今もなお思い出す。
雨の日なら、春夏秋冬、いつも僕は気分が快いのだ。降りだすと、僕は、雨を眺めながら、聴きながら、愛読の蕪村句集を取り出して徐ろに読み耽る癖がある。この稀有な視覚型の詩人の視野においては、「簑と傘とがもの語り行く」道のほとりに、或は「人住みて煙壁を漏る」陋屋の内に、「春雨や暮れなんとしてけふもあり」という情景も床しく、「五月雨や仏の花を捨てに出る」その花の褪せた色も香も、「秋雨や水底の草蹈みわたる」散策子の蹠の感覚も、「楠の根を静かにぬらす時雨」の沈静な風趣も、悉く好もしい。
若し晴天に風が伴わなかったら、僕は必しも蒼空を詛いはしない。しかし、少くも微風よりも強い風が吹き初めて、砂塵を揚げ出したら、その瞬間から、僕は蒼空の徒らに蒼きを憤って、雨を想い、雨を呼ぶようになる。雨さえ降ってくれれば常に心和み神休むのである。どうも、僕の前世は田圃の蛙か田螺であったらしい。
フランス語にエクート・シル・プルー――耳を澄ませば雨かいな――という言葉がある。水の涸れやすい流れに臨む水車小屋の義である。転じて、疑わしきこと、心もとなき意味にも用いられる。意思の弱い人のことを「彼奴も善い男だが、些っとばかりエクート・シル・プルーだね」などという。ユーゴーの文句に「僧正様、霊魂不滅と申すことは、どうやら、エクート・シル・プルーではござりますまいか!」というのがある。惟うに人類とともに旧き霊魂不滅説なども畢竟耳にかそけく、目にも見分かぬ雨の類であろうか。エクート・シル・プルー!
昔の獅子舞歌に
大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる。
と歌われたが、今し、庭の芝生の緑を濡らし、霧島の紅きを濡らして降りつづく雨も、その源は大伽藍の内で、細く静かに揺れていた香の煙であったかと思うと、いよいよ雨が好きになる。
十年の昔、秋雨瀟々と降りしきる一日、ベルギーの古都ブリュージュを訪れて、風情に富む縦横の堀割に沿うて雨を賞しながら、灰白の空を支うる寺院の奥に香の煙の揺曳するのを眺めながら、ローダンバックの描いた『死都ブリュージュ』の面影を親しく味わった。しかしてパリよりもむしろこの古都において、寂寞として、「市にそぼ降る雨のごと、我が心にも降るものあり」というヴェルレーヌの風懐を沁々なつかしく思った。
また、ブリュッセルの郊外オーデルゲムの雨の日には、ヴェルハーレンの
……薄墨の長き糸もて、緑なる窓の玻璃に、条を引く、はてしなく、雨、長き雨、雨。
という絶唱を新たに想い起して楽しんだ。
映画『巴里の屋根の下』のプロローグの次は街の雨の景であった。雨の奥に…