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教祖の文学
きょうそのぶんがく
作品ID56812
副題――小林秀雄論――
――こばやしひでおろん――
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年9月17日
初出「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日
入力者Nana ohbe
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-10-20 / 2017-04-22
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったという話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンと一緒に墜落した由で、この話をきいた時は私の方が心細くなったものだ。それは私が小林という人物を煮ても焼いても食えないような骨っぽい、そしてチミツな人物と心得、あの男だけは自動車にハネ飛ばされたり川へ落っこったりするようなことがないだろうと思いこんでいたからで、それは又、私という人間が自動車にハネ飛ばされたり川へ落っこったりしすぎるからのアコガレ的な盲信でもあった。思えば然しこう盲信したのは私の甚しい軽率で、私自身の過去の事実に於いて、最もかく信ずべからざる根拠が与えられていたのである。
 十六、七年前のこと、越後の親戚に仏事があり、私はモーニングを着て東京の家をでた。上野駅で偶然小林秀雄と一緒になったが、彼は新潟高校へ講演に行くところで、二人は上越線の食堂車にのりこみ、私の下車する越後川口という小駅まで酒をのみつづけた。私のように胃の弱い者には食堂車ぐらい快適な酒はないので、常に身体がゆれているから消化して胃にもたれることがなく、気持よく酔うことができる。私も酔ったが、小林も酔った。小林は仏頂面に似合わず本心は心のやさしい親切な男だから、私が下車する駅へくると、ああ俺が持ってやるよと云って、私の荷物をぶらさげて先に立って歩いた。そこで私は小林がドッコイショと踏段へおいた荷物を、ヤ、ありがとう、とぶらさげて下りて別れたのである。山間の小駅はさすがに人間の乗ったり降りたりしないところだと思って私は感心したが、第一、駅員もいやしない。人ッ子一人いない。これは又徹底的にカンサンな駅があるもので、人間が乗ったり降りたりしないものだから、ホームの幅が何尺もありやしない。背中にすぐ貨物列車がある。そのうちに小林の乗った汽車が通りすぎてしまうと、汽車のなくなった向う側に、私よりも一段高いホンモノのプラットホームが現われた。人間だってたくさんウロウロしていらあ。あのときは呆れた。私がプラットホームの反対側へ降りたわけではないので、小林秀雄が私を下ろしたのである。
 だから私はもう十六、七年前のあのときから、小林秀雄が水道橋から墜落しかねない人物だということを信じてもよい根拠が与えられていたのであったが、私は全然あべこべなことを思いこんでいたのは、私が甚だ軽率な読書家で、小林の文章にだまされて心眼を狂わせていたからに外ならない。
 思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ。私は小林と碁を打ったことがあるが、彼は五目置いて(ほんとはもっと置く必要があるのだが、五ツ以上は恰好が悪いやと云って置かないのである)けっして喧嘩ということをやらぬ。置碁の定石の御手本通りのやりかたで、地どり専門、横槍を通すような打方はまったくやらぬ。こっちの方がムリヤリいじめに…

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