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戯作者文学論
げさくしゃぶんがくろん
作品ID56813
副題――平野謙へ・手紙に代えて――
――ひらのけんへ・てがみにかえて――
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年9月17日
初出「近代文学 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日
入力者Nana ohbe
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-05-23 / 2016-03-04
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この日記を発表するに就ては、迷った。書く意味はあったが、発表する意味があるかどうか、疑った。
 この日記を書いた理由は日記の中に語ってあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういう風につくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今迄日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持にならない。
 私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識していたこともある。平野君は必ず「女体」に就て何かを書き、作者の意図が何物であるかというようなことを論ずるだろうと考えた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違っているというようなことは、然し、どうでもいいことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知っているかどうか、それすらが大いに疑問なのである。
 だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑ったのだが、然し、考えてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。
 そして私がこの日録を発表するのは、批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するというような意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。
 平野君からの注文は「戯作者文学論」というので、私は常に自ら戯作者を以て任じているので、私にとって小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかったのではないかと思う。
 私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかも知れない。然し、そう、大して違わない。私はただの戯作者でもかまわない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭の上で、私は戯作しているだけなのだ。
 生存を賭ける、ということも、別段、大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。
 それで私は、私の小説がどんな風にして出来上るか、事実をお目にかける方が簡単だと思った。ところが、私は、とても厭だったのは、この「女体」四十二枚に二十日もかかって、厭に馬鹿馬鹿しく苦吟しているということだった。それはこの「女体」が長篇小説の書きだしなので、この長篇小説は「恋を探して」という題にしようと思っており、まだ書きあげてはいないのだが、長篇の書きだしというものには、一応、全部の見透しや計算のようなものが、多少は必要なのである。伏線のようなものが必要なのである。
 そんなものの全然必要でないもの、ただ書くことによって発展して行く場合が多く、私は元来そ…

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