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デカダン文学論
デカダンぶんがくろん
作品ID56815
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「堕落論・日本文化私観 他二十二篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年9月17日
初出「新潮 第四三巻第一〇号」1946(昭和21)年10月1日
入力者Nana ohbe
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-02-12 / 2015-12-24
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 極意だの免許皆伝などというのは茶とか活花とか忍術とか剣術の話かと思っていたら、関孝和の算術などでも斎戒沐浴して血判を捺し自分の子供と二人の弟子以外には伝えないなどとやっている。尤も西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるそうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、曰く言い難しとくる。私はタバコが配給になって生れて始めてキザミを吸ったが、昔の人間だって三服四服はつづけさまに吸った筈で、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然の筈であるのに、そういう便利な実質的な進歩発明という算段は浮かばずに、タバコは一服吸ってポンと叩くところがよいなどというフザけた通が生れ育ち、現実に停止して進化が失われ、その停止を弄んでフザけた通や極意や奥義書が生れて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろというような当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考えられてしまうのである。キセルの羅宇は仏印ラオス産の竹、羅宇竹から来た名であるが、キセルは羅宇竹に限るなどと称して通は益々実質を離れて枝葉に走る。フォークをひっくりかえして無理にむつかしく御飯をのせて変てこな手つきで口へ運んで、それが礼儀上品なるものと考えられて疑られもしない奇妙奇天烈な日本であった。実質的な便利な欲求を下品と見る考えは随所に様々な形でひそんでいるのである。
 この歪められた妖怪的な日本的思考法の結び目に当る伏魔殿が家庭感情という奴で、日本式建築や生活様式に規定された種々雑多な歪みはとにかくとして、平野謙などという良く考える批評家まで、特攻隊は女房があっては出来ないね、などとフザけたことを鵜呑みにして疑ることすらないのである。女房と女と、どこが違うのだろう。女房と愛する人と、どこに違いがあるというのか。誰か愛する人なき者ありや。鐘の音がボーンと鳴ってその余韻の中に千万無量の思いがこもっていたり、その音に耳をすまして二十秒ばかりで浮世の垢を流したり、海苔の裏だか表だかのどっちか側から一方的にあぶらないと味がどうだとか、フザけたことにかかずらって何百何千語の註釈をつけたり、果ては奥義書や秘伝を書くのが日本的思考の在り方で、近頃は女房の眉を落させたりオハグロをぬらせることは無くなったが、刺青と大して異ならないかかる野蛮な風習でもそれが今日残存して現実の風習であるなら、それを疑るよりも、奥義書を書いて無理矢理に美を見出し、疑る者を俗なる者、野卑にして素朴なる者ときめつけるのが日本であった。女房のオハグロは無くなったが、オハグロ的マジナイは女房の全身、全心、魂の奥底にまで絡みついて生きており、それが先ず日本の幽霊の親分で、平野謙のように私などよりも考える時間が余程多いらしい人ですら、人間の姿を諸々の幽霊から本当に絶縁しようという大事な根本的な態度を忘れ、多くは枝葉に就て考える時間が多いのではないか…

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