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![]() そうかいをのぞみておもう |
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作品ID | 56821 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本柳田國男集 第二十九巻」 筑摩書房 1964(昭和39)年5月25日 |
入力者 | しだひろし |
校正者 | 高江啓祐 |
公開 / 更新 | 2015-01-09 / 2014-12-27 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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一
私はいつかこんな折が有つたら、御話をして見たいと思つて居たことがあります。日本が四箇の大なる島から成立つて居るやうに考へることは誤つて居る。此誤は何時の時代からか知らぬが、兎に角全國圖と云ふものゝ出來てから後の事と思ひます。恐くは又例の通り、我邦の事を外國人の本から、教へてもらつて知つた位のことでありませう。少し考へて見たら分る如く、我々の住む島は、臺灣から千島に亙つて、稍[#挿絵]大きなものが五百近くあり、其過半は現に住んで居るのです。此誤は國家の成長するにつれて、自然に放任して置いても斯うなつて行くべきものだつたかも知れませぬが、今になつて囘顧して見ますと、是が現在我々の一大問題、即ち日本の世界的孤立と云ふ形勢を生じた、一原因では無かつたかと思ふのであります。
斯邦の人は、大昔土工の技術を韓人から學んだとあります。而も多くの職業は世襲祕傳でありましたので、其術が汎く一般の利益に行渡らなかつたのです。全體に雨の多い國なので、飮水に困ると云ふことは無かつたが、其代り大部分の農民は、水の害を防いで平地に安住するの方法を知らぬ前、又遠國に美田となるべき土地の在ることを、知る手段の具はらぬ時代には、川の流に沿ひ海岸から離れて、上の方へ上の方へ入らうと力めたやうであります。又地形も之を促したやうに思ひます。大阪を始めとし、今日の稍[#挿絵]廣い一帶の耕作地は、歴史時代の海又は遠干潟でありました。ほんの近世に堤が出來て、稻を作り得るやうになつたのであります。
大昔の田代は必ず山々の谷に在りました。川岸を溯つて谷に入ればもう海は見えなくなる。二三代もすると海を忘れ、自ら稱して山國の者などゝ謂ひます。尤も山で取圍んだ甲斐信濃などに入りますと、實際そんな感じがします。美濃とか上州とかの人たちでも、どうも感冒がよくなほらぬ。少し海岸の空氣を吸はなければ、などゝ言つて濱邊へ出て來ます。いづくんぞ知らんやあの邊で村里にも、ちやんと海の風が吹いて居るのであります。でも海のはたへ來ると、目に見えてよくなるぢや無いかと謂ふ。それは空氣が町中のやうに濁つて居らず、魚を食つて呑氣にして居る爲で、あちらが海國で無い證據にはなりませぬ。
日本の武家は狩獵がすきであつた。是れ我々が本來の山人であつた一の證據なりと申します。然るに猪猿鹿が山の奧へ逃げ込んだのはほんの近年のことで、以前は彼等も亦海岸の住民でありました。土佐にも阿波にも備前にも、今尚鹿の住む鹿島があります。陸前の金華山や安藝の宮島は皆樣も御承知、鹿島と云ふ郡は二つ以上あつて、共に皆海岸であります。對馬には以前野猪が多くて其害に堪へなかつた。島の端から端へ木柵を作り、之を一隅に追詰めてやつと全滅させたのは江戸期の中頃の事です。三河の伊良湖岬では明治になつて、辛うじて野猪退治に成功しました。青森縣の外南部では、今でも年に幾つ…