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吉野葛
よしのくず
作品ID56867
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「ちくま日本文学014 谷崎潤一郎」 筑摩書房
2008(平成20)年4月10日
初出「中央公論」1931(昭和6)年1月~2月
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2016-02-04 / 2016-01-01
長さの目安約 75 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

その一 自天王

私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、―――近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。―――この話はまずその因縁から説く必要がある。
読者のうちには多分ご承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民によって「南朝様」あるいは「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、―――後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。ごくあらましを掻い摘まんで云うと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀と云う者が大覚寺統の親王万寿寺宮を奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に立て籠った事実がある。この時、討手の追撃を受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀井、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天王と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十有余年も神璽を擁していたと云う。それが赤松家の遺臣に欺かれて、お二方の宮は討たれ給い、ついに全く大覚寺統のおん末の絶えさせられたのが長禄元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れを酌み給うお方が吉野におわして、京方に対抗されたのである。
遠い先祖から南朝方に無二のお味方を申し、南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝と云えばこの自天王までを数え、「五十有余年ではありません、百年以上もつづいたのです」と、今でも固く主張するのに無理はないが、私もかつて少年時代に太平記を愛読した機縁から南朝の秘史に興味を感じ、この自天王の御事蹟を中心に歴史小説を組み立ててみたい、―――と、そう云う計画を早くから抱いていた。川上の荘の口碑を集めたある書物によると、南朝の遺臣等は一時北朝方の襲撃を恐れて、今の大台ヶ原山の麓の入の波から、伊勢の国境大杉谷の方へ這入った人跡稀な行き留まりの山奥、三の公谷と云う渓合いに移り、そこに王の御殿を建て、神璽はとある岩窟の中に匿していたと云う。また、上月記、赤松記等の記…

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