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蓼喰う虫
たでくうむし
作品ID56874
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「蓼喰う虫」 新潮文庫、新潮社
1951(昭和26)年10月31日
初出「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日
入力者kompass
校正者しんじ
公開 / 更新2019-07-24 / 2019-06-28
長さの目安約 224 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

その一

美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる? やっぱりいらっしゃる?」ときいてみるのだが、夫は例の孰方つかずなあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうと云う心持もきまらないので、ついぐずぐずと昼過ぎになってしまった。一時ごろに彼女は先へ風呂に這入って、どっちになってもいいように身支度だけはしておいてから、まだ寝ころんで新聞を読んでいる夫のそばへ「さあ」と云うように据わってみたけれど、それでも夫は何とも云い出さないのである。
「とにかくお風呂へお這入りにならない?」
「うむ、………」
座布団を二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついていた要は、着飾った妻の化粧の匂いが身近にただようのを感じると、それを避けるような風にかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、と云うよりも衣裳の好みを、成るべく視線を合わせないようにして眺めた。彼は妻がどんな着物を選択したか、その工合で自分の気持も定まるだろうと思ったのだが、生憎なことにはこの頃妻の持ち物や衣類などに注意したことがないのだから、―――ずいぶん衣裳道楽の方で、月々何のかのと拵えるらしいのだけれども、いつも相談に与ったこともなければ、何を買ったか気をつけたこともないのだから、―――今日の装いも、ただ花やかな、或る一人の当世風の奥様と云う感じより外には何とも判断の下しようもなかった。
「お前は、しかし、どうする気なんだ」
「あたしは孰方でも、………あなたがいらっしゃれば行きますし、………でなければ須磨へ行ってもいいんです」
「須磨の方にも約束があるのかね?」
「いいえ、別に。………彼方は明日だっていいんですから」
美佐子はいつの間にかマニキュールの道具を出して、膝の上でセッセと爪を磨きながら、首は真っすぐに、夫の顔からわざと一二尺上の方の空間に眼を据えていた。
出かけるとか出かけないとか、なかなか話がつかないのは今日に限ったことではないのだが、そう云う時に夫も妻も進んで決定しようとはせず、相手の心の動きようで自分の心をきめようと云う受け身な態度を守るので、ちょうど夫婦が両方から水盤の縁をささえて、平らな水が自然と孰方かへ傾くのを待っているようなものであった。そんなふうにしてとうとう何もきまらない内に日が暮れてしまうこともあり、或る時間が来ると急に夫婦の心持がぴったり合うこともあるのだけれど、要には今日は予覚があって、結局二人で出かけるようになるだろうことは分っていた。が、分っていながら矢張受動的に、或る偶然がそうしてくれるのを待っていると云うのは、あながち彼が横着なせいばかりではなかった。第一に彼は妻と二人きりで外を歩く場合の、―――此処から道頓堀までのほんの一時間ばかりではあるが、お互の気づまりな道中が思いやられた。それに、「須磨へ行くのは明日でもいい」と妻はそう云っているものの、多分約束がしてある…

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