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もん
作品ID56923
著者夏目 漱石
文字遣い旧字旧仮名
底本 「漱石全集 第四卷 三四郎 それから 門」 岩波書店
1966(昭和41)年3月25日
初出「朝日新聞」1910(明治43)年3月1日~6月12日
入力者阿部哲也
校正者染川隆俊
公開 / 更新2019-01-05 / 2018-12-24
長さの目安約 274 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 宗助は先刻から縁側へ坐蒲團を持ち出して日當りの好ささうな所へ氣樂に胡坐をかいて見たが、やがて手に持つてゐる雜誌を放り出すと共に、ごろりと横になつた。秋日和と名のつく程の上天氣なので、徃來を行く人の下駄の響が、靜かな町丈に、朗らかに聞えて來る。肱枕をして軒から上を見上ると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでゐる。其空が自分の寐てゐる縁側の窮屈な寸法に較べて見ると、非常に廣大である。たまの日曜に斯うして緩くり空を見る丈でも大分違ふなと思ひながら、眉を寄せて、ぎら/\する日を少時見詰めてゐたが、眩しくなつたので、今度はぐるりと寐返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしてゐる。
「おい、好い天氣だな」と話し掛けた。細君は、
「えゝ」と云つたなりであつた。宗助も別に話がしたい譯でもなかつたと見えて、夫なり默つて仕舞つた。しばらくすると今度は細君の方から、
「ちつと散歩でも爲て入らつしやい」と云つた。然し其時は宗助が唯うんと云ふ生返事を返した丈であつた。
 二三分して、細君は障子の硝子の所へ顏を寄せて、縁側に寐てゐる夫の姿を覗いて見た。夫はどう云ふ了見か兩膝を曲げて海老の樣に窮屈になつてゐる。さうして兩手を組み合はして、其中へ黒い頭を突つ込んでゐるから、肱に挾まれて顏がちつとも見えない。
「貴方そんな所へ寐ると風邪引いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京の樣な、東京でない樣な、現代の女學生に共通な一種の調子を持つてゐる。
 宗助は兩肱の中で大きな眼をぱち/\させながら、
「寐やせん、大丈夫だ」と小聲で答へた。
 夫から又靜かになつた。外を通る護謨車のベルの音が二三度鳴つた後から、遠くで鷄の時音をつくる聲が聞えた。宗助は仕立卸しの紡績織の脊中へ、自然と浸み込んで來る光線の暖味を、襯衣の下で貪ぼる程味ひながら、表の音を聽くともなく聽いてゐたが、急に思ひ出した樣に、障子越しの細君を呼んで、
「御米、近來の近の字はどう書いたつけね」と尋ねた。細君は別に呆れた樣子もなく、若い女に特有なけたゝましい笑聲も立てず、
「近江のおほの字ぢやなくつて」と答へた。
「其近江のおほの字が分らないんだ」
 細君は立て切つた障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指を出して、其先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「斯うでしやう」と云つた限、物指の先を、字の留つた所へ置いたなり、澄み渡つた空を一しきり眺め入つた。宗助は細君の顏も見ずに、
「矢つ張り左樣か」と云つたが、冗談でもなかつたと見えて、別に笑もしなかつた。細君も近の字は丸で氣にならない樣子で、
「本當に好い御天氣だわね」と半ば獨り言の樣に云ひながら、障子を開けた儘又裁縫を始めた。すると宗助は肱で挾んだ頭を少し擡げて、
「何うも字と云ふものは不思議だよ」と始めて細君の顏を見た。
「何故」
「何故つて、幾何容易い字でも、こりや變だ…

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