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北京と巴里(覚書)
ぺきんとぱり(おぼえがき)
作品ID56936
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「欧洲紀行」 講談社文芸文庫、講談社
2006(平成18)年12月10日
入力者酒井裕二
校正者岡村和彦
公開 / 更新2015-09-06 / 2015-05-25
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 芥川龍之介氏は上海へ行くと政治のことばかりに頭が廻って困ると私にこぼしたことがある。そのころの政治という言葉の意味は今の思想という言葉に当るが、言葉も十年の間にかなりな意味の変化をしているものだと思う。このごろは精神の政治学という斬新な言葉もフランスから出て来たが、思想という言葉の含んでいる行為の部分を強めて言えば、思想は精神の政治学と言っても良い。芥川氏は私の見たところでは当時の誰よりも、自分の精神に政治学を与えていた人のようであったが、もし今も氏が生きていたなら、必ず氏の好んだ北京よりも嫌った上海の方に興味を感じたにちがいあるまい。上海を歩いていれば、ここでは絶えず自分の精神に調節をほどこす政治が必要である。またその調節の方法や度合も二十世紀の調節の仕方に、ある程度の東洋の工夫をこらさねばならぬ。この東洋の工夫がわれわれに最も必要緊急な政治学となって来たことは、支那をこの度廻って来て私の痛切に感じたことであった。私も私なりにこの工夫をしてみたいと思ったが、両手からはみ出して来る圧力には何とも致し方がなかった。
 私は支那に足を踏み込む度に、前から東洋ということを、あまりに大きな手にあまった問題だと思っても、それが頭にのしかかって来て取り去ることが出来なかった。これは単に私のみではなかろうと思う。人は見て来たところは何らかの方法で自分で処置をつけておかないといつか必ずまた自分の中で膨れ出す。私は支那で会った人々で長くこの地にいる優れた人物ほど、どうも支那というところは分らないと嘆息するのを一度ならず聞いたことがある。その都度思わず私もそのまま真似したくなったが、これをそのように言っては心に政治もほどこせない。どこか分らぬもののあればこそと思いつつ私はこの暮に北京の方へ支那海をのぼっていった。
 見たところいま東洋はあげて騒擾に入ったと見える。私もまたそのように思った一人であるが、しかし、考えようによってはこれは東洋の静々とした性格の内容が、どのような含蓄を中に潜めていたかという報告を世界に向ってしているようなものかもしれない。この報告の結果の良い部分は、何らかの意味で世界に有利なものを導き入れる好機を造りつつあるような気持ちもされる。私は人より異説を立てることを好まないが、いつもそれに従うこともまた常識として赦されない。東洋の常識は多くは生き生きとした生理であるということを考えると、それは譬えて云えば電磁力のように、沈黙の表情の中を貫き走る格律のごときものにも見える。また私は人の表情というものをも思想や常識と等しく尊重し、これを世の中の精神の関聯に常に役立てる術として育てて来た東洋の神秘の中には、電磁の作用を皮膚の一角で感じとっていた操作も含まれているように思われる。実にこのような物理学の範囲を越えた東洋の数奇な世界となると、桂馬の斜めの飛び足のような迷…

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