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自然の復讐
しぜんのふくしゅう |
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作品ID | 56953 |
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著者 | 丘 浅次郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」 筑摩書房 1974(昭和49)年9月20日 |
初出 | 「中央公論」1912(明治45)年1月 |
入力者 | 矢野重藤 |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2019-11-18 / 2019-10-28 |
長さの目安 | 約 14 ページ(500字/頁で計算) |
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一
自然を征服し得たことは人類の最も誇りとする所である。文明と云ひ野蛮と云ふも、畢竟、自然を多く征服し得たか、少なく征服し得たかの相違に過ぎぬ。火を以て随意に物を焼き始めてより、野獣を捕へて家畜とし、雑草を養うて作物としたのも、皆自然の征服であつたが、十九世紀に至つては、自然の征服が急に盛になつて、鉄道を敷いて大陸を征服し、巨船を浮べて海洋を征服し、更に二十世紀に入つては、飛行機を飛ばして天空をも征服するに至つた。水を用ひて灯を点じ、炭を燃やして氷を造るは素より、電波を使役して遠距離の間にも自由に通信し、エツキス放散線を利用して胎内の子供の骨をも写す。また血清を製造して微細なる病原生物を征服し、新薬「六〇六」を注射して「スピロヘーテ、パルリダ」をも絶滅し得ると云うて居る。斯くて人類は自然を征服し得たことを何よりの手柄と心得、文明の進んだことを大に得意として、今後も益々競うて自然を征服せんと努めて居るのである。
併し此所に一つの疑問がある。自然は果して斯様に人類に征服せられるのみで、敢へて之に対して復讐を企てる如きことは無いであらうか。我々が自然を征服し得たりと思うて得々として居る間に、恰も白蟻が堂や寺などを喰ひ弱らせる如くに、見えぬ所で絶えず彼が仇返しを為して居る様なことは無いであらうか。此様な問題は、今日の人類を標準とし、今日の世の中だけを見、目前の勝利に心を奪はれて、たゞ文明を謳歌し居る人等には、恐らく胸に浮ぶことさへ無いであらうが、遠く人類の過去の歴史を考へ、下等な獣類時代から、猿時代、野蛮時代、半開時代を経て終に現今の有様に達したまでの変遷の跡を探るときは、この問題に対して慥に然りと答ふるの外に途は無い様に思はれる。
二
自然には一定の理法が有つて、之を破るものは必ず罰せずには置かぬ。例へば人間の住所なる陸地に就いて考へて見ても、森林の樹木を猥りに伐り払ふて山を坊主にすれば、雨水を一時吸収し貯蓄するための自然の装置が無くなるから、雨降りの続く度毎に洪水が出て、家を流し橋を落すに至る。小鳥類を濫獲して取り尽せば、昆虫類の繁殖を制限する自然の働き役が無くなつて、忽ち害虫が殖え、作物の収獲が著しく減じ、場合によつては皆無となる。また海岸の森を切り倒したために、魚の望んで来る蔭が無くなり、漁期にも魚が採れず、近辺の町が衰微したと云ふ様なこともある。製造所から汚物を川へ流し出すために其の先の海で蝦や海苔が出来なくなつて、土地の人々の産業が絶えると云ふこともある。これ等は何れも自然の理法を無視したために自然から罰を受けたのであつて、全く自業自得と云ふの外はない。斯様な過ちは、今日まで何所でも随分数多く有つたであらう、また今後も時々あるであらうが、之は知識の足らぬため、先見の明の無いために起つたことである故、人智の進むと共に、追々同じ過ちを避けることも…