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岩野清子氏の『双棲と寡居』について
いわのきよこしの『そうせいとかきょ』について
作品ID56965
著者伊藤 野枝
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」 學藝書林
2000(平成12)年5月31日
初出「第三帝国 第五六号」1915(大正4)年11月1日
入力者酒井裕二
校正者持田和踏
公開 / 更新2024-02-11 / 2024-02-06
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は中央公論十月号に掲載された『双棲と寡居』を読んで黙つてはゐられないやうな気がした。
 私がそれを最初に読んだときは可なり無理な理屈があると云ふことに気がついたに過ぎなかつた。そうして再読三読して見て私はそれがどうしても無理おしつけの後からつけた理屈でうづめられてゐることを見逃すことは出来なかつた。尤も清子氏について全く未知ではない私は氏がどんな些細な行動にも何かしら後からきつと何とか理屈をつけずには気がすまないと云つた性質を幾分持つてゐられることは早くから知つてゐた。それで清子氏としてはそれは決して全く不自然ではないかもしれない。そして氏自身がそれで安神してゐられるなら少しも差支へのないことだと思ふ。併しこの態度を自分として考へたときに私は非常に不快になる。何故なら若しかりにあの理屈が後からつけた理屈でなしにあの通りに動いてこられたのなら人間の自然の性情とは非常に遠い不自然な人間であると思はずにはゐられない。如何に理智の勝つた人間であつてもあれ丈けの不自然から来る苦痛には堪へられやうとも思はないし、若し又理智の勝つた人間であるならあの理屈と理屈の間の矛盾を見逃せる筈はない。
 氏は第一にその結婚が悪闘の苦しい歴史であつたと云つてゐられる。併しこの述懐は私達にとつては奇異なものでなければならない。何故なら若し自意識も何にもない女が在来のいろ/\な情実から結婚をして或る動機をもつて意識した時にその過去をふり返つての述懐ならばそれは同情すべきであるし同感も出来る。併し結婚の最初において既に立派な自意識をもつて事を運んだ氏の述懐としてはこれは不思議なものでなければならぬ。
『私は私の結婚生活の六年間に於いて配偶者のもつ愛の解釈と私のもつ愛の解釈との錯誤の為めに彼は彼の解釈する愛を肯定させやうとし私は私の解釈し望んでゐる愛に同化させやうとして永い戦争を続けた』
 これも私には大きな疑問である。愛の解釈の相異それは自意識ある人々の結婚の後において云々される性質のものであらうか? 私はそれは未知の者同志が他人の意志で一緒にされた在来の因習的な結婚においてこそ結婚後に云々されると云ふことは珍らしいことではないと思ふが自意識ある人にとつては非常におかしく聞える。彼の人等には結婚はその解釈の同意の後でなくてはならない筈である。私はさう信ずる。而してなほその上六年間一日としてその争闘から逃れ得なかつたと氏は云つてゐられる。六年と云ふ年月は決して短かい時日ではない。私は結婚の第一義であるべき愛の問題について六年と云ふ長い年月を費すやうな努力は決して出来ないことだと思ふ。少くとも私一人でなく多少とも自意識を持つた婦人にしてこんな偉大な努力をし得る人が果して幾人あるだらうと私は考へる。私は大久保時代の氏等を全で知らない。また知らう筈もないが氏の書かれた処に依ると氏は泡鳴氏に対して…

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