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作品ID | 57020 |
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著者 | 中村 地平 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「近代浪漫派文庫 33 「日本浪曼派」集」 新学社 2007(平成19)年1月17日 |
初出 | 「日本浪曼派」1936(昭和11)年12月号 |
入力者 | 日根敏晶 |
校正者 | 良本典代 |
公開 / 更新 | 2017-02-26 / 2017-01-12 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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辺りをはばかる低い声で、山岸花子に呼ばれたやうな気がしたので、文科大学生の根上三吉は机の前から起ちあがり、電燈のコードをひつ張つて窓の外を覗いた。簡単服に足駄といふ花子の姿と、彼女の丈け位ゐある羽鶏頭が庭には照しだされた。いつもは玄関からあがつてくるのに、夜更けのせゐにしても裏木戸から廻つてくるのはおかしい、それに顔いろもわるいやうだが、電燈のせゐかな、などと不審げに、三吉はしばらく花子の顔を見つめてゐたが、あがるやうに合図した。
花子は部屋に入ると、改つたやうに座敷の隅に坐り、ベソをかいた子供のやうな顔をした。電燈のせいばかりでなく、やつれて醜い顔であつた。
「どうしたの。脚が痛むの」
訊ねても不機嫌に押し黙つたまま、頭を横にふつてゐるので、側へ行かふとすると
「およりになつちや駄目。およりになつちや駄目」
花子は身をふるはして叫び、たまり兼ねたやうに畳にうつぶして泣きだした。肩に手をかけると
「あたし梅毒なの。遺伝性の梅毒なの」
投げだすやうに言つて、泣きわめいた。
彼女の言葉が信じられないわけでもなかつたが、余りの意外さに、すぐには彼女の悲痛な気持ちにはついてゆけずに、三吉はただ呆然とするばかりであつた。
花子はひだり脚に結核性のカリエスを病んでゐて、ちよつと跛をひいて歩るく。よほど気をつけてみないとわからない程度で、三吉も花子に注意せられて、始めて彼女が片脚を引摺つて歩るくことに気がついた位ゐであつた。
病身な少女と友情以上の交際に入ることを、母親はひどく気にやんだが、自分の健康に自信を抱いてゐた三吉は、彼女の病患に愛憐の気持ちを深めこそすれ、一向に平気だつた。
花子の脚はすこし歩きすぎると忽ち痛み、殊に曇天や雨天の日はひどかつた。
「けふは脚が痛むの。午後から雨になりましてよ」
冗談を言ふ花子を、三吉は「天文技師」と呼んでゐて、卵の白味のやうに滑べ滑べした彼女の脚に、水薬を塗つてやつたり、繃帯を巻いてやつたりすることもあつた。
一週間位ゐ前に、花子は軽い風邪にかかつた。大事をとつて附近の小さな私立病院へゆくと、院長は留守で、今年医専をでた代診の若い女医が診てくれた。
「風邪は大したことはありませんが」
と、女医は仔細げに首をかしげた。
「あなた、血液検査をおやりになつたことがありますか」
ないことを答へると、女医は若い医者特有の学究的な功名心にそそられたものであらう。
「カリエスは結核性のものと、梅毒からくるものと二つの場合があるのです」
常識として花子も知り抜いてゐる医学知識を、ノートでも暗誦するやうな口調で言つた。帝大病院の診察に従つて、カリエスは結核性のものとして治療してゐることを答へると、女医はまるで帝大病院に挑戦でもするやうな興奮のしかたで、花子の腕から血液をとつたものであつた。
その結果がけふ判り、意外にも…