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![]() おおいがわおくやまのはなし |
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作品ID | 57026 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下 」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「新家庭」1920(大正9)年7月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2015-12-13 / 2015-11-12 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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赤石山系の二大山脈即ち白峰山脈と赤石山脈とは、其北端に位する鳳凰山塊と共に、日本南アルプスと呼ばれている。此等の山脈は北アルプスと呼ばれている飛騨山脈よりは、概して高さに於て優っているに拘らず、登山者の数は反て甚だ少ないのである。殊に赤石山脈の南半に至っては友人中村君の話によると、其地方に住んで三十年も鉄砲打をしていた唯一の案内者でさえ、尾根の上迄は登ったことがないので、始めて山の頂上に立って四方を見渡した時に、「岳というものは下で見たのとはおっかなく違うもんだ」と驚いた位であるそうだから、況して登山を目的として此附近に足を踏み入れた者は、今迄に僅か十四、五人あるのみである。それなら山が低い為かというと決してそうではない。試に陸地測量部発行の五万分一地形図赤石岳図幅を見ても分る通り、赤石岳から南の方駿信遠三国の界に在る光岳まで直径にすれば三里半有るか無しの距離の間に、二千五百米乃至二千八百米以上の山が十座近くも聳えている。中にも聖岳の如きは三千十一米の高さで、一万尺に達せざること僅に六十四尺である。此山一つだけでも登山の価値は充分にあるのだが、それにも拘らず此山脈に登山者の少ないのは、交通の不便であることが最大の原因であって、北アルプスの多くの山のように、汽車から降りると一日か遅くも二日目には、もう目的の山に達せられるのとは違って、どの方面から登るにしても困難が多い為に流行から取残されたものであろう。山に取っては夫が反て勿怪の幸といわねばならぬ。
私が大井川奥山(大井川最奥の部落である田代の人々は、上流の山々を奥山と総称している)の縦走を試みたのは、大正三年の夏であって、私より二年前の明治四十五年七月に、友人中村清太郎君が最初の縦走を為してから、まだ漸く二人目であったのは、一般登山者の目を附けない山を狙う人の多かった時分としては、寧ろ意外にも思われたのである。
私の計画は大井川の支流信濃俣を遡って駿信の国境山脈に登り、夫から尾根伝いに北方小河内岳を踰えて三伏峠に至り、釜沢に下って大河原に出るのが目的であったから、田代を出発点とするのが便利であった。田代へは静岡から大日峠を踰えて行くのが最も近道であるが、私は序に白峰山脈の南の端にある青薙山に登って、東河内の谷から田代へ下ろうと慾張った為に、鰍沢から舟で富士川を下り、飯富に上陸して早川の支流雨畑川に沿い、雨畑村に行き、青薙山の案内者を探したが適当な人が無い、それで止むなく断念して、山伏峠というのを踰えて田代へ来た。
準備の為に田代で一日逗留して、案内者の望月雄吉と人夫の滝波国一の二人に、十日分の食糧を背負せ、奥山に向って出発したのは、七月三十一日の午前六時頃であった。連日の旱に道芝の露さえおかず、山奥の草木もしおれ勝であった程好晴が続いていたので、小河内道を取って大井川の左岸を上ることにした。此道の方が…