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奥秩父
おくちちぶ |
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作品ID | 57027 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下 」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「新家庭 夏期臨時増刊」1922(大正11)年8月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2015-12-04 / 2015-09-01 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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秩父という名が大宮を中心とした所謂秩父盆地に限られていた時代には、武甲山や三峰山などが秩父の高山であるように思われていたのも無理ではない。今から約百年前の文政七、八年頃に出来上った『新篇武蔵風土記稿』を見ると、少し高い山では僅に三峰山、武甲山、両神山及雲取山などが挙げられているだけである。三峰山は古くからお犬様で名高い神社のある山で、現に三、四百人位は泊れる設備がしてある程であるが、山というよりは山腹というた方が適当である尾根上の平地であって、其奥に妙法、白岩、雲取の三山があるから、それで三峰というのだという説がある。武甲山と両神山は孰れも石灰岩の山であって、それが外部から働く力に侵蝕されて鋸歯の如く筍の如き岩が聳立し、山貌が奇抜である為に人目に付き易く、夫で早くから持て囃されたのであろうと思われる。
しかし三十四番の観音に参詣する巡礼の姿が絶えて、リュックサックを背負った登山者が入り込むようになり、舞台が平原から山地へ、麓から頂上へと移って行くにつれて、秩父という名の表す範囲も自ずと広いものとなってしまった。昔は秩父郡のそれも平野の縁までに限られていたものが、いつしか武甲信の三国に亙る広大な山地をも含むようになって、奥秩父なる新称が之に与えられた。荒川、千曲川、笛吹川、多摩川等の巨流は、皆この奥秩父を水源地としている。試に武甲信の三州界に兀立する甲武信岳の頂上に立って俯瞰すると、千曲、笛吹、荒川の三川が三本の糸を抓み上げたように直ぐ脚の下まで上って来ているのを見るであろう。こう舞台が変っては武甲山や両神山などが、僅に口元秩父に於ける高山として存在を認められることになったのも止むを得ない次第である。
序に両神山のことを少し書きたい。此山は大宮盆地に臨む武甲山ほどむきだしではないが、夫でも前には丘陵地が横たわるのみで、直に関東の大平原に面しているから眺望は非常に広い。高さも武甲山よりは三百八十米余も高く、千七百米を超えている。昔日本武尊が東夷征伐の途上この附近をお通りになった時、八日の間、この山が見えていたというので、八日見山と名付けられたという古事は、一方からいえば山の眺望の広闊なることを証拠立てるものである。河原沢村では竜頭山と唱えたようであるが、この名は今日では特に両神山の中の一峰に与えられた称呼となっている。
今でこそ此山へ信心で登る人など数える程しかあるまいが、維新前までは三峰にも劣らず多くの登山者があり、また道場といい得る程の行場はなくとも、別当はそれぞれ当山派と本山派とに属する修験であったから、山伏や行者も相当に山入りをしたものらしい。その所為か登山道も、日向大谷(明神社別当観蔵院、当山派修験)からの表口の外に、浦島(権現社別当金剛院、本山派修験)から両見山に上って、長い尾根を西に伝い、二子山、三笠山などを経て表口に合するもの、白井差か…