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渓三題
たにさんだい
作品ID57030
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 下  」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年7月15日
初出「中学生」1924(大正13)年8月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2015-12-17 / 2015-09-01
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 いつぞや秩父の長瀞見物に行って来た人が「どうもいい景色ですな、あんな所は山の中にもそう沢山はありますまい」というて、其話をして呉れたことがある。私は黙って夫を聞きながらも、始めてあれを見る都の人には無理もないことだと思った。然し長瀞は秩父赤壁などと大袈裟に宣伝されてはいるものの、河の両岸が極めて古い地質時代の岩石から成っていることが少し珍しいだけで、取り立てていう程の景色ではない。紀州の瀞八町、信州の天竜峡、近頃有名になった長州の長門峡などは言うに及ばず、小さな所で甲州御岳の昇仙峡にすら劣っている。つまり長瀞程度の山水ならば、日本国中至る所に存在しているのである。若し山水の景致ということを主として番付でも作るとしたならば、恐らく長瀞などは夫に載る資格はあるまいと思う。
 今迄世に知られて居る名高い渓谷の多くは、火成岩又は火山岩から成り立っている。瀞八町は中世紀の水成岩が浸蝕作用を受けて作った美事な峡谷の標本であるが、火山岩の谷は暫く措き、其他の長門峡でも天竜峡でも、又は石狩川上流の大箱小箱にしても、皆火成岩類の谷である。これは火成岩の岩質に因るものであろう。中にも豪壮とか偉麗とかいうような文字は、花崗岩の山水に最もふさわしい形容詞であるといえる。そして私の知っている範囲では、日本の如何なる峡谷を持って来ても、遂に黒部峡谷に及ぶものはない。長さ二十里に余るこの大峡谷は、実に豪宕と偉麗とを合せ有し、加うるに他に容易に見ることを得ない幽峭と険怪とに満ちている。この規模を小さくしたものに双六谷があり、更に一層小さくしたものに都近い所では、笛吹川の上流東沢西沢がある。私は今其一斑を読者に紹介するに先立って、美しい渓谷を作る要素に就て少しく述べて見たい。美しいといっても単に優美という狭い意味ではなく、素晴らしいとか物凄いとかいう意味をも含んでいるものと思って戴きたい。

 渓谷を美しくする要素として、第一に挙げたいのは水の色である。水が濁っていると淵も瀬も区別がつかなくなる為に、著しく浅いという感じが起る。流が急であると猶更其感が深い。勿論水嵩が増せば奔放の勢は倍加するに相違ないけれども、水の運動の見える所は表面だけに止るので、謂わば臆病者の長刀と同様、真の恐ろしさに欠けている。但し大洪水のような特別の場合は例外としなければならぬ。水が澄んでいればいる程、渦巻く淵の色は飽まで紺碧に冴えて、その中では蛇体の如く蜿曲した力強い水の幾うねりが無数の気泡を含みながら、白い尾を曳いて絡み合い縺れ合い、ぐらぐらと湧き上ったり沈み返ったりしているのが見える。それが淵から溢れて急な河床を矢のように奔下する際、水底に蟠る巨岩に激して、其上を滑るように躍り超えると、高く擡げた波頭が白く砕けて、雪を噴く瀬の音が谷一ぱいに鳴りどよめく。この紺碧の淵と雪白の瀬とは水の清い谷川でなければ見られな…

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