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![]() ふゆのやま |
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作品ID | 57034 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下 」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「旅」1926(大正15)年1月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2015-12-07 / 2015-10-31 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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都大路に木枯が音ずれて、街路樹の梢が日に増しあらわになりまさる頃になると、濁りがちな空の色も流石に冴えて、武蔵野をめぐる山々の姿が、市中からも鮮に望まれる日が多くなる。雪の富士、紫の筑波は言うに及ばず、紫紺の肌美しき道志、御坂の連山の後から、思いも懸けぬ大井川の奥の遠い雪の山がソッと白い顔を出して、このほこらかな文化の都を覗いていることさえも珍しくはない。その鋭い白冷の光は、煤烟と騒音との真中に閉じ込められて、恐らく神経が痲痺するであろう都の山岳宗徒に取りても、高鳴る胸を押し鎮めながら、有りし日の懐しき憶い出――過去の登山――にのみ空しく陶酔しているには、余りに堪え難き刺戟でなければなるまい。少しでも多く山に近寄りたい、否、出来るだけ深く其懐にもぐり込みたい、あの栄光に輝く高嶺の雪!
こうして冬の山の旅は始められるのであろう。
想えば冬の登山、一層適切に言えば積雪期に於ける高山の登攀は、山登りに足を蹈み入れた熱心な人の終に辿る可き道程に外ならぬのであろうが、夏季に於けるよりも数倍の危険が伴い、其上氷や雪に対する知識と技術とを強く要求するものであるから、今の所まだ少数の人々の間に限られている有様である。夏の登山は都会人にあっては既に年中行事という程度にまで進んでいるとしても、一般に普及されたとは考えられない、即ち登山の民衆化という点から観れば漸く半途まで漕ぎ付けた位のものであろう。登山の民衆化などというと、人に依りては或は好んで山を俗化するものであるといきまく向きがあるかも知れない、然し指導と設備さえ誤らなければ、登山の民衆化は決して山を俗化するものではない。山の俗化に名を藉りて、一般の登山者を排しようとするのは、寧ろ陋とす可きであると共に、登山の民衆化を口実として、目前の利益の為に自然を破壊するが如き行為は、厳に警む可きものである。私は少くとも我国の夏の山は登山の民衆化に天与の道場であると信ずるものであるから、其健全なる発達を希望して止まない。
斯様に夏の登山は民衆化すべき可能性が充分にあるが、冬山の登山はどの点から考えても、まだ其民衆化は容易に実現されようとは想われない。異常な寒気に抗する為の完全な防寒具、時としては旬日に亙る大吹雪の突発に対する周到な用意、氷雪に耐える特別な靴、凍結しない食料品の選択など、数え立てれば一として一般民衆に縁のあるものはない。これでは高い山への憧れが、又その純白な雪のもつ魅力が如何に強くとも、全く泣寐入りの外詮方ないことになる。
勿論冬の高山は、健闘努力して其頂上を窮めた時に、無限の愉悦があり、四周の光景は全然夏と趣を異にした新なる世界を現出するものであるにせよ、劃然と描き出される其輪廓の美と色彩の雄渾とは、平地又は丘陵から山を仰望することを知る者に与えられた礼讃の標的であるといえる。就中輪廓の美は、多く岩石の裸出…