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山の今昔
やまのこんじゃく |
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作品ID | 57035 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下 」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「山岳講座」1936(昭和11)年7月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2015-12-07 / 2015-10-31 |
長さの目安 | 約 44 ページ(500字/頁で計算) |
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山と山人
我国に於て山登りが始められたのは何時頃からであるか、元より判然たることは知る由もないが、遡って遠く其源を探って見ると、狩猟を以て生活の資を得ていた原始民族に依りて、恐らく最初の山登りが行われたであろうことは想像するに難くない。もとより到る処に獲物の多かったことが考えられる原始時代には、深山幽谷をあさる迄もなく、平地の森林、原野、河沼等に於て充分日常の生活資料が得られた筈であるから、山に登ることなどは殆ど必要が[#「必要が」は底本では「心要が」]なかったろう。しかし大きな獲物の前には、すべてを忘れて之を追跡する彼等の習性から推して、斯る場合、山へ登ることが無かったとは断言するを得ない。現に二千米近い山の上で石鏃や特種の石器などが時として発見されることがあるのは其証拠ではあるまいか、或は矢を負うた獣類が山上に逃れて其処で斃死したことも考えられるが、総てがそうであったとは云えないであろう。
農耕が発達するに連れて、平地の生存に堪えられない是等狩猟を生命とする民衆の一団は、狩場であった森林の喪失と獲物の減少と相待って、次第に其生活に都合の好い山奥に逃避することを余儀なくされたであろう。中には農耕生活に同化した者もあろうが、其多数は従来の生活様式を棄て兼ねて、安住の地を平地と交渉の少ない山奥にもとめたのは当然である。彼等も平原から移入した火田法を附近の森林に施して、粟や稗などを作り世渡りの助としたであろうが、其生活は狩猟本位であったから、山と最も交渉の深い人達であったことは疑いない。後になって平地の生存競争に敗れた幾群かの人達も亦山奥に逃れて、其処に乏しい、然しながら自然以外からは脅威も圧迫も受けない、安易な生活を楽しんでいたことと思われる。こういう人達も亦おのずから狩猟を生活の要素として取り入れたであろうから、従って又山との交渉も生じた訳である。
こうしてつくられた部落の多くは、肥後の五箇庄や、庄川上流の桂又は気多川奥の京丸などのように、山中の別天地として一般世間から忘れられたまま、永い間全く埋もれていたものもあるが、後から後からと川筋を開拓して侵入し来る平地人と多少の交渉は避け難かったであろうし、又山脊を境として相隣れる部落と部落との間にも、ふとした機会から何時しか必要に迫られた交通が行われて路が開かれ、ここに後の峠なるものが発達したものと想われる。此の峠が旅人のみならず登山者にも大なる便益を与えたことは言うに及ばないことである。
何時の頃にか炭焼や杣又は岩茸採りなどが一年中の或期間、部落民の間に生業として営まれるようになった。それは他所から来た人に教えられたか、部落の或者が里に出て覚えたか、或は偶然の機会が基であったか、若しくはそのすべてであったか、孰れにしてもそうなる迄には、其間に経済的原因や事情があったろう、それらの関係を知ることは容易で…