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浴槽
よくそう |
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作品ID | 57067 |
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著者 | 大坪 砂男 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「悪夢の最終列車 鉄道ミステリー傑作選」 光文社文庫、光文社 1997(平成9)年12月20日 |
初出 | 「小説の泉」1950(昭和25)年8月 |
入力者 | sogo |
校正者 | 大久保ゆう |
公開 / 更新 | 2016-01-01 / 2016-01-01 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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1
ここから関東平野を一気に千メートル登ろうという碓氷峠の、アプト式鉄道の小刻みな振動を背筋に感じながら、私は読みさしの本をわきに伏せた。
見おろす目の下に、旧道添いの坂本の宿が、きらきらと緑の美しい六月の光を吸って、音無しの村のように静まっている。時の観念から遊離した仙郷とでも云いたい眺めだった。
それも、不意に一切がトンネルの闇に消されると、急に車輪の響きがひどく耳にこたえた。うす暗い電灯の中で見るせいか、ずっと前の席に向合って来た青年の顔半分が蔭になって、だいぶ年寄りじみた印象に変る。それが私の方へじろりと、何か話したそうな唇を動かしかけて、またすぐ目をそらした。ハンケチでしきりに額の汗をぬぐっている。
窓にぽーっと陽がさし始めたと思うまに明るい谷間の景色がひらけた。濃淡とりどりの若葉の繁みを越えて遠く岩山のあたりに一筋白く光るのは滝であろうか。碓氷嶺の南おもてにも爽やかな夏が来たのだ。
開放された自然の美と、閉されたトンネルの陰鬱と、この明暗を繰返し繰返し、列車は急斜面を登って行く。そのうち、私は崖に突出した松の枝に紫の花房あざやかな山藤を見つけて思わず、
「綺麗だなあ……」
と呟いた。それを前の男は話しかけられたものと感違いしたのか、
「ええ。ここの新緑は有名ですから」
と応じた。そして、ふっと言葉の調子を変えると、
「探偵小説がお好きのようですね?」
「そう。商売になってしまって」
「お書きになるんですか?」
「どうやら人の真似事を……」
と答えながら、彼の観察の源は明瞭だった。私の横に伏せてある本の表紙には“ハイライト著 密室殺人事件”と印刷されてる。
「小説を書くならS高原にいらっしゃい。ご存じでしょう?」
と仲々親切だ。
「スキー場じゃありませんか」
「近頃はそれで名が通ってしまいましたが、もともと避暑地なんですから。今頃は花が一時に咲き乱れて何とも云えない良い季節ですよ。それなのに都会の人はまだ来ないし、土地の者は田植で忙しい。だから静かに勉強するには申し分ありませんね」
「なるほど」
と私の心は少し動いた。
「S高原ならK湯に限ります。御紹介しましょう。そこでたった一軒の温泉宿はわたしの、叔父が経営してますから」
何のことはない、青年にしては丁寧な口がきけると感心していたら、これではまるで客引きにかかったようなものだった。
私は少し可笑しくなって、
「どうやら環境が良すぎて、人殺しを考えるには刺戟が無さそうだな」
「ところが、どうしてどうして事件勃発です。それも浴場密室事件だったらどうです?」
「やれやれ。いよいよハイライト式になってきた」
「この正月にK湯へ天皇一家の或る方がスキーの練習に来られたんですが」
「新聞で見て知ってます」
「このとき、新聞に出ない事件が闇から闇へ葬られているので……」
「ふーん」
…