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人間と云ふ意識
にんげんといういしき
作品ID57117
著者伊藤 野枝
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」 學藝書林
2000(平成12)年5月31日
初出「青鞜 第四巻第一〇号」1914(大正3)年11月号
入力者酒井裕二
校正者Butami
公開 / 更新2019-09-16 / 2019-08-30
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 十月号掲載の岩野清子氏の「個人主義と家庭」と云ふ論文を読んで私は或る点については全く私の考へ方と同一であるのを見出したけれど他の方面に於いて私の考へてゐるのとは可なりに違つてゐることにおどろいた。そうして私はらいてう氏の感想を読んだ。氏の云つてゐられることはまあ私の云はうとしてゐることである。私はだからそのことについては黙つてゐやうと思つたけれど矢張り満足が出来ないので書くことにした。然し私は岩野氏の思想について云々するよりも多く自分の考へについて云ひ度いと思ふ。また実際私は他人の思想に立ち入ることは好まないから。たゞそれに依りて考へさゝれた私の感想を述べやうとするのである。私の考へてゐることゝ岩野氏の思想の何の点に相違があるかは読む人の判断にまかせる。私はたゞ岩野氏の論文によつて考へさゝれた事で云ひたいこと丈けを云ふ。

 私は如何なる場合ひにも自分の考へてゐる事に対象を置き度くない。それは今の私たちの生活ではむづかしいことではあるけれど。否むしろむづかしいと云ふよりも夢想であるかもしれない。考へてゐることが外面的に表はれたときにはどうしても何かの対象が現はれないでは済まないけれどもその発想に何の対象も有しないと云ふことはうれしい事である。
 私は常に他人との接触に何時も幼い時から私についてまはつてゐる習俗的なあるものが殆んど絶えずつきまとつて私を苦しめる。私はこの頃それがだん/\深味へ入つて来たことを意識してゐる。それは重に家族との交渉である。私の所謂姑と小姑とその夫たちと私の或る間接な関係から必然に起つて来る接触である。明らさまに云へば私の今なやんでゐる問題はそれである。この家庭の問題では私は岩野氏以上に苦しんでゐることを断言し得る。私は常にその事で悩まされてゐる。私の日常生活を知つてゐる限りの人は皆その事を知つてゐる。私はその問題に対して自分の心弱さが腹立たしくて耐らない。私は私の当然とるべき道はすつかり知つてゐる。けれども私に最後までまつはつてゆく私の他人に対する弱いこゝろづかいがつい思ひあがつた私の決心をにぶくしてしまふ。それには或る程度にまで私の心の中に侵入して来てゐる夫の心持ちも多少は手伝つてゐることは勿論である。私は殆んど毎日その問題になやんでゐる。そして私の優しい友達は早く私がその境遇を捨てゝしまふことをすゝめてゐる。これも勿論はやく捨てたい。けれども私はこの頃になつて自分の問題がだん/\と生長して来たことを意識し出した。それは自分と云ふことが人間と云ふことに変つて来たことである。置かれた処によるのかもしれないし私は今迄たゞ自分かぎりの他のことについて考へなかつた。自分がどんなにも小さいものだかと云ふことがわからなかつた。自分と云ふものが本当にどの位広い大きなものに結びついてゐると云ふことに気がつかなかつた。前に云つた私のその問題につい…

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