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らいてう氏の『処女の真価値』を読みて
らいちょうしの『しょじょのしんかち』をよみて
作品ID57152
著者伊藤 野枝
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」 學藝書林
2000(平成12)年5月31日
初出「第三帝国 第三五号」1915(大正4)年3月20日
入力者酒井裕二
校正者笹平健一
公開 / 更新2024-05-24 / 2024-05-13
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「青鞜」二月号に私は処女の価値については全然わからないと明言して置いた。実際私には何うしても処女そのものにそんなに重大な価値を見出すことは出来ないでゐた。そのくせ私自身は殆んど「本能的に」としか答へられないその処女を矢張りどうしても大事がらずにはゐられない。私はその矛盾について可なり考へさゝれた。併しそれは結局いくらいろ/\な理屈を考へて見ても自分の真の愛人との中にお互自身より他の何物も交へたくないと云ふ気持――即ち神経的な潔癖から、みだりに自分自身にとつて薄弱なものゝ為めに汚されたくないと云ふ気持が一番本当の深い理由であつた。もう一度私は断つて置くこれは決して処女の価値ではなく神経的に私が処女を大切にしたがる奥底の理由である。
 らいてう氏の「処女の真価値」が新公論に掲載されたと聞いて私は多大な興味をそれに向けた。私がいくら考へても探がしても求められなかつた価値は果して何か? 私は幾度も幾度も繰り返し読んだ。併しらいてう氏に依つて私は私の求めてゐるやうな価値については何にも見出すことが出来なかつた。氏は生田花世氏、原田皐月氏及び私の云つた事に対して「何等の根本的な確実なそれ自身の真価値を提供してゐないと云ふ点に於いて一致してゐる。」と云つてゐられるが私は氏に対しておなじ言葉をお返して矢張りあなたも私達と一致してゐらつしやると云ひたい。
 らいてう氏は私や生田氏が単に「外的な規定に依つて概括された「処女」と云ふ名称のもとに各個人に於て非常に相違のある性的生活の状態を無視しすべてを同一のものとして取扱はふとしたところに根本的な誤謬があつた。」と云はれた。「その為に真理が見えなかつた」と云はれた。私は勿論それを皆同一に取扱はうとは始めからしてはゐない。二月号に私は私丈けの考へとして特にことはつてゐる。私は一般的には何にも断言した覚えはない、たゞ私自身としての考へについてなら私は何処までもはつきりと云つてゐるつもりだ。私は私の考へてゐることが万人にあてはまること柄ではないと特に断はつた。そして私はなを云はねばならない事は私はあの雑感は処女の価値と云ふことに就いて云々したのではないと云ふことである。生田氏の場合について自身の感想を述べた迄で私は生田氏に対してすらそう積極的には云はなかつたつもりだ。
 私があの感想について一番中心にして書いたのは生田氏のあゝ云ふ場合の態度や考へ方が私にあつてはどうかと云ふこと、及びどの位適当な、又は不適当な場合であつたかと云ふことであつた。或は又私の考へ方や態度を以てすれば生田氏のそれはどの位に迄同一であつたかと云ふ事実がそれである。再び繰り返して私は断つて置く私はあの感想で処女の価値については何にも云はなかつた。ただ一言「不明」と丈け云つた。
「処女は大切であるかないかと云ふやうなことは決してさう全般的にきめられるものではない。各個…

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