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妾の会つた男の人々(野依秀一、中村弧月印象録)
わたしのあったおとこのひとびと(のよりしゅういち、なかむらこげついんしょうろく) |
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作品ID | 57156 |
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著者 | 伊藤 野枝 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」 學藝書林 2000(平成12)年5月31日 |
初出 | 「中央公論 第三一年第三号」1916(大正5)年3月1日 |
入力者 | 酒井裕二 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2017-07-19 / 2017-07-17 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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野依秀一氏
この人は、思つたよりも底の浅い人です。正直で小胆な処があります。子供らしい可愛さがあります。此人は何時でも予想外な突飛さで人をおどかして、その隙に飛び込んで来やうとする人のやうに思はれます。殊にその突飛さが非常に不自然なと云ふ範囲を何処までも出ないので、少し落ちついてあしらつてゐますと、馬鹿気きつた空々しい処があります。
思つたことを遠慮なく云ふことは気持のいゝ事です。野依さんは真実さう云ふ気持のいゝ処がありますが、ともするともう一歩進んでそれを殊更に衒ふやうな傾きがあつて馬鹿々々しくなつて来る事があります。併し野依さんが自分ひとりいゝ気になつて、とんでもないことを、喋舌つてお出になつても少しも反感が起つて来ないのは不思議です。けれどもそれは或は反感を起す程度にも相手を引き立てゝ考へないからかもしれません。非常に可愛らしい処のある気持のいゝ人ですが気の毒な事には、その唯一のおどかしは凡ての人に役立つ丈けの深味も強みも持つてゐません。随分世間には氏を悪党のやうに云つてゐる人もあるけれども決して悪党でも何でもないと思ひます。悪党処か善人なのだと思ひます。善人が頻りに虚勢を張つてゐると云つた格です。
氏の顔から受ける印象から云つても決してすれつからした悪人じみた処はないやうです。氏の眼は何時でも笑つてゐます。そのひたいは陽気に光つてゐます。陰影と云ふやうなものは殆んど見ることが出来ません。たゞ大変に快活な可愛らしい処のある顔です。態度から云つても悪人と呼ぶだけの落ち付きもしぶとさもありません。何時でもやんちやな小僧のやうに浮ついてゐます。私には何処から云つても悪人らしい印象は少しも受ける事が出来ませんでした。野依さんの頭はまた、決して立派なものではなささうです。話してゐる相手と云ふものに就いて非常に考へなければならないやうな場合にもさう云ふことには全く無頓着のやうに見受けます。相手がどの程度に自分の話を受け取つてゐるかと云ふやうな事を少しでも考へると云ふことは殆んどない事と考へられます。それが野依さんの貴い所でまた抜けてゐる処だと思ひます。そのくせ話すときに、何処までも相手を釣つて行かうとしたり、あてこみがあつたり、絶えずしてゐます。処がその技巧が非常に下手で何処までも相手に見透されるやうな拙劣さです。併し御当人は一向平気のやうです。私が会つた時にも初めから終りまで何かしら私の困るやうな突飛な質問を発してその答へを種々に待ちかまへてからかふつもりだと云ふことは明かによめました。さう云ふ気持で一つ/\の問を聞きますと実に馬鹿々々しくなつて来て仕舞ひました。私は再び会つてその空々しさを耐へる気にはとてもなり得ません。もう少し本当に悪人であることを私は望みます。その方が会ふにも話をするにもずつと気持よく取り処があると思ひます。野依さんに、もつとしぶと…