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算盤が恋を語る話
そろばんがこいをかたるはなし
作品ID57188
著者江戸川 乱歩
文字遣い新字新仮名
底本 「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」 光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日
初出「写真報知」報知新聞社、1925(大正14)年3月15日
入力者門田裕志
校正者A.K.
公開 / 更新2016-07-28 / 2016-06-10
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ○○造船株式会社会計係のTは今日はどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へ入ると、外とうと帽子をかたえの壁にかけながら、如何にも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。
 出勤時間の九時に大分間がありますので、そこにはまだたれも来ていません。沢山並んだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照し出されているばかりです。
 Tはたれもいないのを確めると、自分の席へはつかないで、隣の、彼の助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして何かこう盗みでもする時の様な恰好で、そこの本立ての中に沢山の帳簿と一緒に立ててあった一挺の算盤を取出すと、デスクの端において、如何にもなれた手つきでその玉をパチパチはじきました。
「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭なりか。フフ」
 彼はそこにおかれた非常に大きな金額を読み上げて、妙な笑い方をしました。そして、その算盤をそのままS子のデスクのなるべく目につき易い場所へおいて、自分の席に帰ると、なにげなくその日の仕事に取かかるのでした。
 間もなく、一人の事務員がドアを開けて入って来ました。
「ヤア、馬鹿に早いですね」
 彼は驚いた様にTにあいさつしました。
「お早う」
 Tは内気者らしく、のどへつまった様な声で答えました。普通の事務員同志であったら、ここで何か景気のいい冗談の一つも取交すのでしょうが、Tの真面目な性質を知っている相手は気づまりの様にそのまま黙って自分の席に着くと、バタンバタン音をさせて帳簿などを取出すのでした。
 やがて次から次へと、事務員達が入って来ました。そして、その中にはもち論Tの助手のS子もまじっていたのです。彼女は隣席のTの方へ丁寧にあいさつしておいて、自分のデスクに着きました。
 Tは一生懸命に仕事をしている様な顔をして、そっと彼女の動作に注意していました。
「彼女は机の上の算盤に気がつくだろうか」
 彼はヒヤヒヤしながら、横目でそれを見ていたのです。ところが、Tの失望したことには、彼女はそこに算盤が出ていることを少しも怪しまないで、さっさとそれを脇へのけると、背皮に金文字で、「原価計算簿」と記した大きな帳簿を取出して、机の上に拡げるのでした。それを見たTはがっかりして了いました。彼の計画はまんまと失敗に帰したのです。
「だが、一度位失敗したって失望することはない。S子が気づくまで何度だって繰返せばいいのだ」
 Tは心の中でそう思って、やっと気をとり直しました。そして、いつもの様に真面目くさって、与えられた仕事にいそしむのでした。
 外の事務員達は、てんでに冗談をいいあったり、不平をこぼしあったり、一日ざわざわ騒いでいるのに、T丈けはその仲間に加わらないで、退出時間が来るまでは、むっ…

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