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![]() ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 57208 |
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副題 | 237 毒酒薬酒 237 どくじゅやくしゅ |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控 鬼の面」 毎日新聞社 1999(平成11)年3月10日 |
初出 | 「サンデー毎日」毎日新聞社、1950(昭和25)年7月23日号~8月6日号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 結城宏 |
公開 / 更新 | 2017-06-26 / 2017-05-31 |
長さの目安 | 約 51 ページ(500字/頁で計算) |
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【第一回】
一
運座の帰り、吾妻屋永左衛門は、お弓町の淋しい通りを本郷三丁目の自分の家へ急いで居りました。
八朔の宵から豪雨になって亥刻(十時)近い頃は漸く小止みになりましたが、店から届けてくれた呉絽の雨合羽は内側に汗を掻いて着重りのするような鬱陶しさ――。
永左衛門は運座で三才に抜けた自分の句を反芻しながら、それでも緩々たる気持で足を運んで居りました。
眠そうな供の小僧を先に帰して、提灯は自分で持ちましたが、傘と両方では何彼と勝手が悪く、少し濡れるのを覚悟の前で、傘だけは畳んで右手に持ち、五、六軒並んだ武家屋敷を数えるように、松平伊賀様屋敷の側へヒョイと曲った時でした。
「え――ッ」
まさに紫電一閃です。いきなり横合から斬りかけた一刀、闇を劈いて肩口へ来るのを、
「あッ」
吾妻屋永左衛門、僅かにかわして、右手に畳んで持った、傘で受けました。刄は竹の骨をバラバラに切って、辛くも受留めましたが、二度、三度と重なっては、支えようはありません。
朔日の夜の闇は、雨を交えて漆よりも濃く、初太刀の襲撃に提灯を飛ばして、相手の人相もわかりません。
幸い、吾妻屋永左衛門、若い時分町道場に通って、竹刀の振りよう位は心得て居ました。二太刀三太刀やり過したのは、そのお蔭というよりは、暗とぬかるみのせいだったかも知れませんが、兎も角も、雨合羽を少し裂かれただけで、大した怪我もなく、松平伊賀様前の、自身番の灯の見えるところまで辿り着いたのは、僥倖という外は無かったのです。
「えッ、面倒」
畳みかけて襲いかかる曲者の刄は、灯が見えると、一段と激しさを加えました。吾妻屋永左衛門、それを除けるのが精一杯、が、終に運命的な瞬間は近づきました。
後ろすさりの永左衛門、とうの昔に高足駄は脱ぎ捨てて居りましたが、道傍の石に足を取られて、物の見事にぬかるみの中に引っくり返ったのです。
今ぞ観念と、振り冠った曲者の刄、
「あッ、大井、大井久我之助様」
自身番の灯が細雨を縫ってサッと、曲者の顔を照し出したのです。
それは弓町に住む浪人者で、同じ道に親しむ、青年武士――ツイ先刻まで、同じ俳莚に膝を交えて、題詠を競った仲ではありませんか。
相手の素性がわかると、吾妻屋永左衛門妙に自信らしいものがついて来ました。日頃懇意にしているだけに、大井久我之助の強さ弱さをことごとく知って居ります。
吾妻屋永左衛門の棒振り剣術と違って、相手は二本差だけに、剣術の腕前は確かにすぐれて居るでしょう。しかし俳諧、弁舌、男前、わけても金の力では大井久我之助、鯱鉾立をしても吾妻屋永左衛門に及ぶ筈もなく、それを知り悉しているだけに、泥んこの中に引っくり返った永左衛門、急に自信を取戻して来ました。
「暗討は卑怯だろう――何んの怨みで、この私を――」
永左衛門は建物の袖を木楯に、必死の声を絞りまし…